本田由紀さんの「社会を結びなおす」を読んで、「「敵(崩壊したのに社会認識に浸透しきっている戦後モデル)は相当手強い」という新たな学びを得ました。(中略)もっとアクションを起こさないといけないのかなと思い始め」て、さてじゃあ何をどうすれば、と思っていたところ、出口治明さんによる本書の書評を見つけました。
そこには「人間はいくらインプットしたところで、何も行動しなければ世界を変えていくことはできない。そこで、第2部は、「動く」である。」とあったので、本書を手に取ってみた次第です。
中間団体
社会へのアクション・政治への働きかけについて、について、本書で一番の学びとなったのは中間団体についての部分です。
トクヴィルは、民主主義が安定的に作動するために中間団体が不可欠と説いた。バラバラの、原資のような個人は、不安定で、すぐにデマゴーグや独裁者に操作され、民主主義は衆愚政治に陥る。人は中間団体に属し、議論を交わし、お互いの立場について想像しあうことによって、政治的な能力を高めていく。(中略)トクヴィルは中間団体で人間が交際、議論することによって相互性が育成されることを重視した。
しっかりした中間団体が社会の基盤を提供したのは、古き良き時代の話と言えるかもしれない。家族や伝統的な地域共同体が弛緩、あるいは消滅し、労働者が取り替え可能に部品となったいま、企業はもはや人間の存在を認めてくれる場ではなくなった。したがって、何らかの集団に帰属して、人間としての存在を認めてもらいたいという欲求を、特に非正規労働の若者や居場所を持たない人々が持つようになることは、自然な話である。その時、極右団体が受け皿となるという点に、現代日本の不幸がある。他者を排撃することによって自己を集団的に正当化するというのでは、社会集団は自由や民主主義の担い手にはなりえない。
この「中間団体」とはどんなものでしょうか。本書では、業界団体、労働組合、社会運動(組織)、NPOなどが挙げられています。
業界団体というと自分たちの利益を実現するための、そして社会全体の利益は二の次にする集団というイメージを私は持っていましたが、本書ではその側面が変化してきていることを記しています。例えば、日本医師会が訴えを「開業医の利益を確保せよ」から「医療サービスへの資源の投入→最高水準の医療サービスと長寿の存続」に変化させたり、労働組合が失業者やホームレスの人々など経済的困窮者の支援に資源を投入し始めたことなどです。まあ最終目的(自己の利益の最大化)は変わっていないにしろ(それは当然のことですが)、「組織の外縁を広げ、近接する場所にいる人々にも、関係を広げていく」方向にあるのは確かです。著者はそれが今必要なことであり、「民主主義を支える市民の活発化は、個人として頑張るというレベルの話ではなく、市民の居場所となる団体を再生するということである。」と述べています。
たしかにそうかもしれません。このことに気付いたのが、私にとっての本書最大の収穫でした。ということで、自分が所属していたり支援している団体に何ができるかをこれから考えることとします。
その他に、ああそうか、確かにそうかも、でも気付いてなかった、という点をメモします。
企業は労働市場のフリーライダーか
たくさんの犠牲を出すようなビジネスモデルで大きな利益を上げた企業は、その犠牲者をまさに死んだものとみなして、その後の処遇に関心も費用も払わない。それは極めて無責任な態度であり、政治システムに対するただ乗り(フリーライド)である。
たしかにそうだ。でも、企業側の気持ちにもなってみました。「私たちもだから法人税とかいろいろ貢献してるよね」ってなところでしょうか。で、調べてみました。
- 2011年度の労災・失業・生活保護の支出は計6兆5000億程度(国立社会保障・人口問題研究所:平成23年度社会保障費用統計 P.12 ※PDF)
- 法人税による歳入は平成23年度で7兆8000億円程度(財務省:税制について考えてみよう)
あ、ペイできてる・・・まあもともと法人税は失業者対策のための税ではないし(普通税なので)、こんな単純総額比較で結論を出すことも適切ではないし、企業が犠牲となる労働者を量産することが社会全体の利益にならないことは明白ですが、費用負担の面では企業がまったくのフリーライドではなさそうだということもわかりました。
実は、本書には「ステレオタイプに対抗する事実(エビデンス)を探す努力を払うことも必要である」「エビデンスを見つけるためには、インターネットはきわめて有益な道具となる。少しの手間をかけて事実を見つけることによって、杜撰なステレオタイプは崩すことができるのである。」との記載もあるのです。それを早速実行してみた次第です。
規制緩和の一側面
市民感覚によって権威主義を排除するという方向に議論を推し進めれば、別の問題が起こる。(中略)一般市民が医師や教師の専門性を否定して、市民や消費者によるコントロールを徹底したらどうなるであろうか。医療や教育については、サービスを受ける側が、どのようなサービスを受けることが自分にとっての最大利益になるか判断できないという問題がある。
ルールを変更するとは、どちらか一方をより有利にすることを意味する。(中略)政府の働きかけを縮小し、規制緩和を働きかけること自体も、レント(経済活動に対して政府が働きかけを行うことによって特定の集団に与えられる利得)の追求なのである。
私個人は、現時点では原則として規制緩和・市場重視が社会の利益になるんじゃないかなと考えているところですが、上記の側面は忘れてはいけないと感じています。アメリカの医療保険の現状などを見ると特に。
最後に、もっとも印象深かった言葉を引用して、このメモの結びとします。
伊丹万作「だまされることの責任」(1946年)
「だまされるということ自体がすでに一つの悪である」ことを主張したいのである。(中略)「だまされていた」という一語の持つ便利な効果におぼれて、一切の責任から解放された気でいる多くの人々の安易きわまる態度を見るとき、私は日本国民の将来に対して暗澹たる不安を感じざるを得ない。