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「歪み・無関心」にあてられた−バルテュス展(京都市美術館)

この人の絵、好きかどうかというと微妙なんですが、絵の前に立つと身体をつかまれたような感覚になります。その感覚が懐かしくて、京都まで足を運びました。




バルテュス展公式サイト



何が「身体をつかまれたような感覚」なのかというと、人物の「歪み」と「互いの無関心さ」というか、そういう非現実感です。

個人的に一番その力を感じるのは、「山(夏)」「街路」ですね。

ニューヨークで初めてこの2枚の画に遭遇(前者はメトロポリタン、後者はMoMA)したときの衝撃といったら。何じゃこりゃ、でも目が離せないな・・・という感じで画の前から離れられませんでした。またこの画、両方ともでかいんですよ。だからインパクトもさらに倍って感じで。

「山(夏)」などは、私の横で女性二人組が吹き出しながら「何なのこの画?これが芸術ってやつ?」みたいな話をしていました(英語なのでよくわかりませんでしたが)が、それもわかる気がします。

今回のバルテュス展では、残念ながらその路線の画は少なかったのが残念でした(上記の2枚ともありません)が、まあやっぱり他の画でもその「歪み・無関心」パワーは少なからずあって、それにあてられてお腹いっぱいになりました。



バルテュスといえば、少女の裸体や片膝上げた姿勢の画も有名で、今回の展覧会はそちらの画はわりとあったのですが、私はその方面の良さがどうにも理解できないので評価不能です。ただ、展覧会の最後の部屋にあった篠山紀信が撮影したアトリエ写真で、晩年になっても同じように少女モデルに片膝立てさせてるものを目の当たりにしたときは、その執念にうすら寒いものを感じたのは事実です。

参考:バルテュス展・展示作品



ならばこの展覧会はつまらなかったのかというと、そんなことはありません。前述の「パワーにあてられる」経験は他ではなかなか得られないものですし、あと、バルテュスの風景画ってなかなかええやん、という発見もありました。樹のある大きな風景(シャシーの農家の中庭)は、叙情的なたたずまいと、やはりしっかりと内包されている「歪み」がこの人ならではの味わいになっていました。



少なくとも、この人の作品の味わいは本当に唯一無二だということはよくわかりました。しょっちゅうは無理だけど何年かに1回くらいは食べたくなる臭みの強いごちそう、という感じでしょうか。


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