庭を歩いてメモをとる

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平野啓一郎「本心」-貧困・格差のルポとしての側面

心待ちにしていた小説を発売直後に読みました。

その結果。

私はいったいどんなところに付箋をつけたのか。

つまり、どの箇所をまた読みたいと思い、大切だと感じたのか。

それをメモしていきます。

※ストーリーについては前半部分までしか触れませんが、文章の引用は後半部分からも行います。そのため、ネタバレは一切困るという方は以下はお読みにならないようにお願いします。

あらすじ

2040年代初頭の日本。29歳になったばかりの朔也は、事故で亡くなった母親のヴァーチャル・フィギュア(仮想空間中に再現された母親)の制作を依頼する。

母は生前、自由死(当時の日本で合法となっている制度で、安楽死に近い)を望んでいた。その理由を知りたいと思ったからだった。

裕福ではなかったが幸せだった二人の生活。なぜ母はそれを終わらせようとしたのか?

彼の仕事「リアル・アバター(客の分身となって依頼を果たす)」、母がもっとも親しくつきあっていた女性との出会いなどを経て、仕事でのあるトラブルをきっかけに朔也の環境は大きく変わる・・・最後に希望が残る物語。

この小説の、私の読み方

この小説はいろんな読み方ができると思います。

まずはSF・近未来ものとして。

2040年初頭の世界が舞台で、ヴァーチャル・フィギュアが現実になっていたり、リアル・アバターという職業があったり(これは現時点で存在していてもおかしくないですね)。作中では、他にも現代の世の中にはないサービスや商品が登場します。そういう「未来予想」を楽しむこともこの小説では可能です。

作者の平野啓一郎さんが語っているテーマは「最愛の人の他者性」。たとえもっとも身近な人であっても、人は他者の<本心>をどこまでわかっているだろうか?この問いかけと、それについてのいくつかの応え、そして読者自身が考える機会を、この作品すべてを通して届けてくれています。主人公朔也が、母の過去をたどっていき、その途中で出会う人たちと自身との関連性が変化していくプロセスそのものが、そうであると言えます。

考える機会といえば、死の自己決定権について考えるきっかけにもなる小説です。「自由死」が本当に日本で合法になったら?すでにオランダやいくつかの国・地域では安楽死が合法化されているのは有名な事実ですが、日本がすぐにそうはならないとしても、自分の人生にとって非常に重要な問いだから、今から考えておきたいという人もいるでしょう。

他にも、この小説の読み方はいくつかあると思います。それくらいに様々な要素が編み込まれている密度の高い作品ですが、私自身は、この「本心」を「(1)社会の分断・格差と(2)在日外国人の言葉の問題についてのルポルタージュ」として読みました、現時点では。

(「現時点では」と書いたのは、このような「社会問題についてのルポ」という側面は、この小説の主題ではないということを私自身認識しているからです。しかし、初回の読書では、まずこの点が最も心に残ったのは事実です。そして、この小説を何度も味わうことで、おそらく「最愛の人の他社性」というテーマに深く入っていけるのだと思っています。)

そのことをもう少し具体的に書きます。


他人事に思えない個人的事情

まず最初に、この小説で描かれている社会問題が他人事に思えない個人的な事情について書いておきます。

それは年齢です。

小説の世界は2040年代初頭。主人公の母は70歳で亡くなっている。単純に2040年から70を引くと1970年。これが私の生まれ年と同じなのです。

そして、主人公朔也は29歳。これも単純に計算すると、朔也は2011年生まれになります。これも私の次男と同じ生まれ年。

つまり、この物語の主要な登場人物二人の関係性(親子)と年齢が自分とほぼ同じというわけです。

たったそれだけなのですが、このことは、この小説を単なる「20年先のできごと」よりも「切実な現実」に近いもののように感じさせる大きな力になっています。あくまでも私にとっては、ですが。

ちなみに、平野啓一郎さんも1975年生まれで、私と比較的近い年齢の作家さんですが、おそらくこのことはこの作品のこういった舞台設定にも影響が強いのでは、と推測しています。このことの「幸運」は、平野さんの「マチネの終わりに」を読んだときにも強く感じたことです。


貧困・格差の描写

語られる言葉に描かれる「現実」

そんな事情もあり、この小説で描かれる2040年代の日本における貧困・格差についての描写は、まったく他人事に思えませんでしたし、読み進めるにつれて、これは未来予想ではなくて、今現実に起こっていることそのものだとも感じるようになりました。例えばこの、母と生前最も親しく付き合っていた、30代の女性・三好の言葉。

「(中略)貧乏って、何が嫌かって、四六時中、お金のことばっかり考えてないといけないでしょう?(中略)お金なんか、全然好きじゃないのに。大嫌いなものについて考えることで、一生の大半の時間が過ぎていくって、悲しくない?一度で良いから、頭の中から、完全にお金のことを追い払って生活してみたい。どんなにスッキリするかなって。スーパーで、値札見ないで買い物したい。賞味期限切れギリギリの安売りを必死で探すんじゃなくて。きっと、全然違う人間になれると思う。」

平野啓一郎「本心」から引用。以下引用についてはすべて同じ。

これが貧困問題の根本だと思うんですよね。お金がないと、進学や仕事などの人生の選択肢が減っていくとか、欲しいものが買えなくてつらいとか、衣食住の質が下がるとか、不安定で不安だとかいろいろな弊害がありますが、一番「つきまとって離れない」のはまさにこのこと、お金のことで頭がいっぱいにしまうことの憂鬱、そして疲労。

ちなみに作品の後半で、主人公がいわゆる富裕層の自宅にいるときの言葉は、これとは対極です。

(富裕な人の)家で得られた最も大きなもの。-それは、快適な場所で、ゆっくり考える時間だった。

これらは2040年の話ではなくて今現実に起こっていることですよね。それを平野さんが言語化したわけです。言語化というのは、一種のルポルタージュだと私は考えています。

答えの出ない問いの提起

あと、これは答えが出ない問いだなあと思ったのがこちら。

三好「私たちのいる世界はボロボロだけど、お金持ちのいる世界は順調でしょう?あっちまで壊れちゃったら、どこにも居場所がなくなるもの。結局、こっちの世界ももっと悪くなるだろうし。」
(中略)
朔也「こっちの世界から富を吸い上げて、あっちの世界が潤ってるのに、あっちはうまくいってるって言うんですか?」
三好「もちろん、すごく不公平だけど、・・・被災すると、なんか、全体が悲惨より、まだその方がいいのかなって気持ちにもなるんだよね。被災してない場所があるからこそ、被災地の支援もできるわけでしょう?」
(中略)
朔也「やっぱり、世の中全体がもっとよくなってほしいです。生まれた時から、貧富の差がこんなにあって、どっちの世界に生まれるかで人生が決まってしまうっていうのではなくて。」
三好「それはもちろん、そう思うけど、・・・現実的に無理でしょう?すごく長い時間をかけてこうなっちゃってるんだし(中略)どこかに豊かな、まだ大丈夫だって思える場所が残ってほしい。そういうのって、希望って言えない?もっと悪くなるの、怖いもの」

こういう考え方があるのか、というのが第一印象ですが、たしかに三好の考えもわからなくもない。私は朔也の考えに近いですが、こういう考えの人もいる、ということがこの小説から学べました。それをきちんと認識するのとしないのとで、貧困や格差の問題を考え方が違ってくる気がします。

こういう答えの出ない問いを提起して考えさせるのも、優れたルポルタージュの特徴だと私は思います。示唆に富む小説、といっていいでしょう。


ちなみに朔也も、裕福な人を一方的に敵視しているわけではありません。

仕事で出会った富裕層について「知的で、上品で、礼儀正しく、親切な人たちも少なからずいた。これは事実であり、現実だ。」と語っていますし、別の仕事の同僚を「貧乏人が皆、愚かで意地悪だとも言わない。しかし僕は、彼らとの会話に感じた退屈を、何かこの階層に特有なことのように感じるのを禁じ得なかった。」とも言っています。

こういう点にもリアルさを感じます。貧困や格差の問題は、そんなに単純なものではないのだという現実をつきつけられているようです。

自己責任の過度の追求

この貧困問題に関連して感じたのは、この小説における、能力主義や自己責任の過度の追求についての強い反発です。

小説の終盤の言葉なので引用を少しためらいますが・・・

生きていていいのかと、時に厳(いか)めしく、時に親切なふりをして、絶えず僕たちに問いかけてくる、この社会の冷酷な仕打ちを、忘れたわけではなかった。

この言葉だけでなく、作品の各所に、こういった「自己責任の過度の追求に対する強い反発」を感じる言葉が登場します。

これらは、同様に「能力主義や自己責任の過度の追求」に違和感を、もっと言うと、それらは「公平の皮をかぶった不公平」だと考えている自分に響くものがありました。

参考:


なぜ小説で社会問題を?

ところで、そういうことはわざわざ小説で読まなくても、社会問題の「普通のルポルタージュ」で読めばいいのでは?という問いがあるかもしれません。

たしかに、社会問題を理解するのには、そういった書物やニュース、研究者の意見などがまず第一だとは思います。

しかし、小説には、小説にしかできない方法で人に物を伝える力があります。

村上龍さんが、こんなことを書いていた記憶があります。外国(ニースだったかな?)で信じられないほどおいしいデザートを食べた。同席した日本の人たちは食後、日本に電話をかけて「今まで食べた中で一番おいしかった」「一生忘れない」と説明した。しかし、それではこのデザートのおいしさは伝えられないと思って、短編小説を書いた。物語を使わないと伝えられないことがある・・・そんな内容だったと記憶しています(うろおぼえなので正確な引用ではありません)。

上記の貧困に関する描写や意見も、小説の中で読むからこそ心に染み入りますし(私はそれをここに抜粋しているので、掟破りもいいところなのですが)、物語にはたしかにものを伝える非常に強力な力があると実感しています。

小説ならではの描写や比喩も、「普通のルポルタージュ」にはない力があります。たとえばこんなふうに。

地球と太陽の隔たりは、1億4960万キロだという。光は、それほどの距離を経てこの花に達しながら、最後のほんの数センチの差で、片方は伸び、大きく花開き、他方はその陰の下で小ぶりなままなのだった。僕はそれが、この世の不公平の一種の比喩になっているように感じた(後略)

「本心」の、主人公が薔薇の花壇に目をやった一瞬の描写なのですが、これを「普通のルポルタージュ」で読めば、逆に興ざめでしょう。


在日外国人の言葉の問題

貧困・格差の問題の他に、この小説で痛感した社会問題があります。それは、日本で暮らす外国人の言葉の問題です。

これは、貧困・格差の問題のように私が「もともと問題意識を持っていたこと」ではなく、「新しく知ることができた問題」です。

どういうことなのでしょうか。

それは、日本で暮らす在日外国人の二世の一部が、親の言葉(外国語)も日本語も、両方が不自由なまま大人になっているという現実です。

作中で、主人公は21歳のミャンマー人二世の人物と知り合いますが、その人は日本語もミャンマーの言葉も不得手でした。よく使うやり取りは自然なのですが、少し込み入った話になると、こうなるのです。

僕の言葉に対する集中力は見る見る失われていって、当惑したように瞳が震えた。そして、何となく顔を見合わせながら集まってきたような単語が、順番も守らずに一塊になって、僕の方に歩み寄って来るのだった。

彼女は、それで中学を途中からやめますが(そもそも外国人には義務教育制度が適用されないというのも、本作ではじめて知りました。主人公と同じように)、日本語がうまい在日ミャンマー人とも友達になれずに21歳になっているのです。

それにしても、この「苦手な外国語を使わざるを得ないときの描写」の的確さ。私も、英語で会話する必要があるときは、自分の言いたいことを単純化し、時には脚色までして自分の話せる英語の範囲に無理やり押し込めたりします。そういう現象を、平野さんは見事に表現してくださっています。


そして主人公は、単に言葉が不自由というだけでなく、彼女は日本語もミャンマーの言葉も両方不得手なので、そもそも込み入った思考が難しいのではないかと疑います。ここがこの問題の本質です。

私はこれを読んで、日本の聴覚障害者がそれと同様の問題を抱えていることを思い出しました。彼らは日常を手話で過ごしているのに、学校では徹底的に発話の練習をさせる(本人たちは自分の発話が聞き取れないというのに)。その結果、その環境にいた聴覚障害者は9歳程度の学力しか身につかない、という話があるのです。
出典:

これと似たことが、一部の在日外国人に起こっているということを、この小説から学ぶことができたわけです。


読むたびに新しい発見

以上、この「本心」の、社会問題のルポルタージュとしての側面についてのメモでした。

私は、これらがこの小説の本質だというつもりはまったくありません。むしろ本質以外の「側面」でしょう。

(ちなみに、この物語は社会問題を伝えるだけではなく、希望を感じさせるラストを併せ持っています。)

これから、この小説を再読するたびに(すでに2回目を始めています。それくらい惹き込まれているわけです。)「死の自己決定権」や、テーマである「最愛の人の他者性」についても感じ、考え、自分の血肉としていくことができるのでしょう。もちろん、それ以外の、まだ出会えていない側面についても。

読むたびに新しい発見や味わい、心を動かされる何かに出会える。これは、長く世の中で語り継がれる音楽や映画と同様、そういった価値のある小説にもあてはまることです。

この「本心」は、まさにそういう小説だと感じています。


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