出張の新幹線の中から読み続け、最後、最寄り駅から自宅までの徒歩10分、この作品の世界から離れることに耐えられず駅で読み切ってしまいました。現時点では、少なくとも今年一番の小説です。以下、ストーリーの詳細は避けて感じたことを書いてみます。
物語
2006年。天才クラシック・ギタリスト蒔野聡史(38歳)は、サントリーホールのコンサートの打ち上げでフランスRFP通信の記者小峰洋子(40歳)と出会う。「二人の会話は尽きる気配がなかった。それは、最初だからというのではなく、最初から尽きない性質のものであるかのようだった。」すぐに二人はお互いを意識するようになるが、洋子には婚約者がいた・・・
この作品の魅力
何から書いていいかわからないくらいに惹かれる要素があちこちにちりばめられた小説でした。
蒔野と洋子の最初の会話からして、まあこれは私自身の大好きな音楽と音楽家が出てきたからなんですが、しびれました。洋子が蒔野のブラームス間奏曲を「グールドのピアノが好きでしたけど、これからは蒔野さんのギターを聴くことにします」と褒めると、蒔野は「あれは、名盤ですから・・・ひとつだけ共通点もあるんですよ。」と返し、「寒がり?」「コンサートが嫌いなんですよ、僕は。」「それじゃあ、今日は、立派に”野蛮な儀式”に耐えてみせたんですね。」(以上抜粋)・・・グレン・グールドのファンとしてはこれで物語の虜にならざるを得ません。そういえば著者の平野さん、NHKのグレン・グールドの番組にちょっと出てらしたなと思いながら。
まあこれは冒頭のちょっとしたところ、私個人の趣味にたまたま合っていたところですが、この物語の魅力の根っこはどこにあるのか。思いつくままに挙げてみます。
人物の魅力
出てくる人たちのほとんどが、欠点はあるかもしれないけれど誠実に人生と向き合っています。主人公の蒔野は天才ギタリストだし洋子も華麗な経歴を持っているけど、別世界の人間には思えないどころか身近でかつどこか尊敬できるような気高さがあります。特に洋子。他、とんでもないあることをしてしまうある人物も単純な悪役では決してなくむしろかなりシンパシーを感じる面もあったり。
リアルな設定
蒔野を取り巻く音楽業界の事情はもとより、洋子を通じて垣間見えるイラクの状況、パリやニューヨークの街並みや雰囲気が細部にわたって明確に描写されており、それが物語の透明度を増しています。
作中の芸術論の興味深さ
たとえばこんな内容をあちこちで吟味できる小説なのです。贅沢です。
音楽に於ける深みと広がり。長きにわたって幾度となく聴き返されるべき豊富さと、一聴の下に人を虜にするパッとした輝き。人間の精神の最も困難な救済と、せわしない移り気への気安い手招き。魂の解放と日々の慰め - 現代の音楽家のオブセッションのようなそうした矛盾の両立は、ここ数年、蒔野が苦心して取り組んできた課題だった。
「現代版『ギャツビー』のトム」への怒り
資本主義のある一面を体現したかのような人々が唱える「私たちは努力している、貧しい人や失敗した人は努力が足りない」という言説の空虚さ。作中の言及はありませんが「グレート・ギャツビー」のトム、彼とその世界の21世紀版だなと。そして彼らにまたしてもニューヨークで相まみえるわけですが、作中の彼らへのまっすぐな怒りも光っていました。
丁寧に編まれた文章、何より全編に流れる美しさとページを繰らせる物語の力
結局はこれに尽きます。実は平野さんの文章、読点を打つタイミングが私個人の勝手な感覚とは違うのでそこの違和感は以前からずっとあるんですけど、それを吹き飛ばすくらいにこの方の文章はとても美しく紡がれています。最高の刺繍を縫うマイスターがひとつひとつ心を込めてつくったマスターピース、そんなイメージです。
そして、ページを繰らせる物語の力。次が気になるだけでなく物語そのものが最高に味わい深く読み終えるのが実に惜しい、でも読みたい・・・"「ページをめくりたいけどめくりたくない、ずっとその世界に浸りきっていたい」小説"とは平野さんの言葉ですが、ほんとうにそのとおりでした。
参考:『マチネの終わりに』特設サイト|平野啓一郎
新しい視点をもたらすことば
最近の平野さんの作品には、物の見方、場合によっては人生観が変わる「提言」が織り込まれています。たとえば、もはや「この作品を代表することば」になりつつあるこちら。
人は、変えられるのは未来だけだと思い込んでいる。だけど、実際は、未来は常に過去を変えてるんです。変えられるとも言えるし、変わってしまうとも言える。過去は、それくらい繊細で、感じやすいものじゃないですか?
言われてみれば当たり前のような、でもはっきりと言葉にして読むのは初めてで、いろんなものの見方を変える力をもっていることばです。
他に強力だった言葉は、「今の自分が、先祖全員が”正しい恋愛”をした結果存在しているとは言い切れない」(正確な引用ではありません)というもの。本作はこの言葉をもって不倫を肯定しているわけではありません。もっと深いところで挙げられています。そしてこれも新しい視点をもたらしてくれます。
他にも、主役ではなく積極的に脇役を生きる人生とか、これは強く賛同するわけではないですが何度か頭によぎったことのある「どんな人でも、死ぬまでにはきっと、それなりの罪を犯すはずで、それで言うと、自分の場合、許される罪の重さの制限に対して、まだまだ余裕があるはずだった」という考えとか、少し読み進めるのを止めて考えを巡らせてしまうようなことばが要所要所に現れるのです。
年齢が近いという幸運
ところで、洋子は66年生まれ(たぶん)、蒔野は68年、私は70年、平野さんは75年生まれ。これ、私にとって本当に幸運でした。この作品における恋愛をはじめとする様々なシチュエーションや思考は「40歳前後」ならではのものだからです。
わかりやすいところでは、女性なら子どもを授かるタイムリミットが迫っていることや、作中で「『ヴェニスに死す』症候群」と言われる「中高年になって突然、現実社会への適応に嫌気が差して、本来の自分へと立ち返るべく、破滅的な行動に出る」衝動など。
まあこれはわかりやすい例ですが、他にも「これわかるわー」「これはこの歳になって実感したことや」みたいな反応の連続でした。これはやはり平野さんが40代になられたということが大きく作用した結果だと推測しているのですが、となると、読者である自分が平野さんと年齢がそれほど離れていないことの幸運、これを実感せざるを得ません。
何より、この「マチネの終わりに」というタイトル。ラストシーンだけでなく、人生の「マチネの終わり」つまり昼の部が終わるあたりの年齢を表現する絶妙さが、「この年齢の人々」へのメッセージであり、これからの人生をよく生きるためのある種のエールであると私は信じています。
(似たことを私も考えています。)
関連メモ
本作に登場する音楽へのリンクをまとめてくださっています。
『マチネの終わりに』作中に出てくる音楽 - Everyday is like Sunday
平野さんの作品についてのメモ。
「グレート・ギャツビー」についてのメモ。