本書はカラー写真が豊富で観光ガイドの側面もありますが、やはり最も印象深いのは、タイトル通り「本土の人間は知らないが、沖縄の人はみんな知っていること」の内容でした。
興味深い内容がたくさんありましたが、その中でも特に重要だと思われたポイントについてメモします。
鳩山首相はなぜやめたのか
- 基地建設反対運動を行っている酒井満さん「あれは前にもあったのよ」
- 1997年12月21日、辺野古の海上基地建設をめぐって名護市で市民投票があり、反対派が勝利した。しかし、比嘉鉄也市長(投票前年まで反対派市民の総決起集会を開いていた)は東京へ行き、同24日、橋本首相と会い、基地受け入れを表明すると同時に辞任する意向を伝えた
こんなことがあったとは知りませんでした。鳩山(由紀夫)首相が辞任した経緯と似ています。
鳩山首相が「アメリカに逆らったから辞任の方向に持っていかれたのだろう」くらいのことは見当がついていた一方、鳩山さん個人の資質の問題も大きいのではと思っていましたが、似た例がもうひとつあるのであれば、そうとも言えない(誰がやってもこうなる)かもしれないな、と考えるようになりました。
以下の鳩山さんの言葉もそれを裏付けている気がします(官僚が鳩山さんや民主党を信用していなかった、という側面もあるとは思いますが)。
官邸に両省(外務省・防衛省)の幹部二人ずつを呼んで、このメンバーで戦っていくから情報の機密性を大事にしようと言った翌日に、そのことが新聞記事になった。(「琉球新報」「沖縄タイムス」2011年2月13日)
ところで、日本政府(官僚)がこれほどまでにアメリカ側につくのはなぜなのでしょうか。その源流となる会見があったようです(ここから先は「沖縄の人はみんな知っていること」ではないのかもしれませんが、本書が伝えたいことの根幹だと思うのでご紹介します)
昭和天皇・マッカーサー会見
- 1947年5月6日:マッカーサーから昭和天皇へ「日本が完全に軍備をもたないこと自身が日本のためには最大の安全保障であって、これこそ日本の生きる唯一の道です」
- 同日:昭和天皇からマッカーサーへ「日本の安全保障を計るためには、アングロサクソンの代表者である米国がそのイニシアチブをとることを要するのでありまして、このため元帥のご支援を期待しております」
- 共産主義勢力の拡大を受け、アメリカ政府は1947年から政策転換を始め、行きすぎた民主化と非軍事化をやめ、日本を反共の砦にすることとした。
- マッカーサーは当初反対していたが1948年から方針転換し1950年には警察予備隊(後の自衛隊)の創設を命じる
- 豊下楢彦・前関西学院大学教授:「天皇外交」を憲法違反としてきびしく批判しながらも、昭和天皇個人の能力については「(吉田茂首相より)はるかにリアルでクール」「結果として天皇の行った「外交」は、米軍駐留問題でも沖縄問題でも講話問題でも、政府外務省の施策決定を見事に”先取り”するものだった」と高く評価
- 同教授:昭和天皇がこれほど強く米軍の駐留を希望したのは、高い政治能力に加えて、共産主義革命への強い恐怖があったからではないか
昭和天皇の卓越した先見性から始まり、戦後日本はトップから「防衛はアメリカに」という方針が示されていたのですね。
昭和天皇の政治能力については、以下のメモでもうかがい知ることができるかもしれません。このメモと併せて考えると、昭和天皇の1947年の心境は「戦前はなんとか戦争を避けようとしていたが、いざ戦争をしてこうして負けてしまったら、今は日本(と自分)が生き残るためにはなりふりかまっていられないな」というようなものだったのかもな、と想像したり。
さて本書は、この「防衛はアメリカに任せる」方針について、現在では問題があると指摘しています。それはなぜなのでしょうか。
日米軍事同盟の問題点
- 2002年9月アメリカ「合衆国国家安全保障戦略」での「先制攻撃ドクトリン」:アメリカが「自国の安全に対して脅威となるいかなる政府をも打倒する、一方的な権利をもっていること」を宣言
- 元外務相国在情報局長・孫崎享氏ほか世界の有識者から、この宣言が1648年のウエストファリア条約以来つづいてきた近代国際法の理念「自分が正義だといって他国に戦争をしかけない」を破壊するものという指摘がなされている
- 2005年、町村外務大臣・大野防衛庁長官は、国会審議を経ることなく、合意文書「日米同盟:未来のための変革と再編」をアメリカと締結した。これにより、日本は「アメリカの他国への一方的攻撃」に協力することを事実上約束してしまった。
今や日米軍事同盟は二国間だけに影響するものではなく、世界と日本・アメリカのものになっている、ということですね。
(ご参考:孫崎氏の本についてのメモはこちら。「日米同盟:未来のための変革と再編」についてもう少し詳しく書いています)
もちろん、在日米軍基地の問題もあります。例えばこのような状況が今も続いています。
- 日本の国内法では米軍基地は「日米安保条約上の提供施設」として、航空法の適用除外になっている
- 那覇防衛施設局(現・沖縄防衛局)局長は「米軍機はどこを飛んでもいいんだ」「国内法の基準もアメリカの基準も守らなくていいんだ」とはっきり言っていた
- アメリカ軍の家族が住んでいる家や通っている学校の上は絶対に飛ばない
日米軍事同盟を見直すとすると、在日米軍基地の見直しや撤退は避けて通れないでしょうが、一方で「首相が辞めさせられるほどの力をもったアメリカに対抗することなどできるのか」という懸念もあります。私にもありました。しかし、近くでそれを実現した国があるそうです。フィリピンです。
フィリピンにおける米軍基地完全撤退
- フィリピンでは、1987年に制定した憲法に基づき、米軍基地の完全撤退を実現させている
- ピナツボ火山噴火の影響なのでは?→空軍基地はたしかにそう。しかし海軍基地は違った
- アメリカ軍事上、沖縄ほど地理的重要性がないのでは?→沖縄が太平洋の要石(Keystone)ならフィリピンは「不沈空母」(Unsinkable Aircraft Carrier)と言われていた
- しかもフィリピンは日本より不利な点も多かった
- 1946年まではアメリカの植民地だった
- 基地のひとつ(クラーク空軍基地)は1979年まで沖縄の全米軍基地の2.4倍の広さがあった
日本より不利な条件下で、フィリピンはどのように米軍基地を撤退まで持っていったのでしょうか。
- 1986年、民衆革命でアキノ大統領誕生。選挙前の公約に「外国軍基地撤廃」があったが、就任後消極的に
- それでも、1987年、外国軍と基地の受け入れを原則禁じる憲法発効。
- 1990年、アメリカ・フィリピン両政府の間で交渉開始
- アメリカ側の担当者はアーミテージ国防次官補。「ワシントンとその同盟国は激怒している!」と怒鳴り散らす
- パキスタン・ムシャラフ大統領もアーミテージ氏(当時国務副長官)についてこのように語っている「2001年アフガン戦争のとき、アーミテージ氏から、対テロ戦争でアメリカに協力しない場合『空爆を覚悟しておけ。石器時代に戻る覚悟をしておけ』と脅された」(2006年9月21日CBSテレビインタビュー) →アーミテージ氏はムシャラフ氏のこの証言について「そんな言い方や表現はしていない」が「『味方でなければ敵だ』と伝え、かなり強い言葉で協力を求めた」と証言。よしてるはこれを読んで、ジャイアンの台詞「(まんがを)いつかえさなかった?えいきゅうにかりておくだけだぞ」を思い出しました・・・・
- フィリピン側は追い込まれ、1990年、海軍基地継続使用の新条約を調印
- 国民の間に反対運動が発生。一方、アキノ大統領は条約批准の運動を展開
- 1991年、フィリピン上院は12対11で条約批准拒否(米軍基地継続拒否)
- その後、フィリピン・アメリカ間の関係は特に悪化していないが、アメリカの関与と介入は劇的に後退した
フィリピンは成功したのですね。本当に「フィリピン・アメリカ間の関係は特に悪化していないが、アメリカの関与と介入は劇的に後退した」のかは別途きちんと調べておきたいですが、とりあえず、1990年にアーミテージ氏に毅然と対応したマングラプス外相とベンソン保健相は現在も元気に暮らしているそうです。
ちなみに、ジョンズ・ホプキンス大学のケント・カルダー教授によると、ある国に政権交代があった場合、駐留する外国軍は81.6%(米軍に限っても66.7%)の確率で撤退するのだそうです。
導き出される鳩山首相辞任理由
冒頭の「鳩山首相はなぜやめたのか」に戻ると、以上の内容からは「フィリピンのこの『成功例』と『政権交代後の米軍撤退の可能性上昇』を考慮して、アメリカが日本の仲間たちと協力してやめる方向に持っていった」(この部分の「」内の文章はよしてるによるもので、本書にはありません)という回答が導き出される気がします。
では、アメリカは日本(の世論など)にどのようにして影響を及ぼしているのか?本書では、元読売新聞社主・日本テレビ創立者の正力松太郎がCIAのエージェントだったことや日テレ発足当初の資金不足についてアメリカが面倒を見たことなど(日本テレビとCIA 発掘された「正力ファイル」 (宝島SUGOI文庫))を紹介しつつ「メディアコントロール」を挙げています。
以上のように、本書は沖縄を通じて日米関係について新たな視点を提供してくれる本でした。「ではどのようにすればよいのか?」についてもしっかり提言がある(このメモでは紹介していませんが)、地に足が着いた本です。本書をきっかけに、もう一度日米同盟・日本の防衛について考えてみたくなりました。もちろん沖縄についても。