(2020年8月15日更新)
かつて日本がどういう流れで対米戦争を始めるに至ったのか、それを自分なりに整理したかったので、半藤一利さんの「昭和史」を読んで、その内容の一部をまとめてみました。
全体を一覧できるよう、表にもしました。
(なお、この内容はこのたった一冊の本の内容を元に作成した、歴史をあるひとつの角度のみから整理したものです。別の見方も当然ありえます。)
1941年対米開戦までの要因・状況メモ
(以下、赤文字は戦争に至る主な要因、緑文字は社会の変化・状況を表す代表的な出来事を示しています。)
1928年 昭和3年
関東軍:張作霖爆殺事件を起こす(中国東北部の軍閥・張作霖が日本の支援で勢力を伸ばしたものの、だんだん日本の言うことを聞かなくなってきたため、関東軍が独断・秘密裏に爆殺。しかし、すぐに軍の関与を疑われた)
張作霖が爆殺された現場の写真(以下、特記のないものを除き画像はウィキペディア・コモンズからの引用で、パブリックドメインです。)
1929年 昭和4年
- 政府:田中義一首相、張作霖爆殺事件の調査を天皇に命じられたが陸軍に邪魔されて調査を充分に果たせず。このため天皇に叱責され辞職、数ヶ月後急性狭心症により死亡。
- 田中義一
- 天皇:田中首相の死に責任を感じ、今後は「内閣が一致して言ってくることは天皇が反対でも裁可を与える」ことにした → 「もの言わぬ天皇」に
- 昭和天皇(1932年)(Bundesarchiv, Bild 102-12923 / CC BY-SA 3.0 DE [CC BY-SA 3.0 de (https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0/de/deed.en)])
1930年 昭和5年
- 政府:ロンドン軍縮会議派遣団、補助艦対米70%確保の目標に対し69.75%まで確保実現、この内容でよいか日本へ訓電を仰ぐ
- 海軍:訓電に対し「全体としては賛成」
- 天皇:訓電に対して裁可を与える
- 海軍:天皇に裁可を与えられた後に反対の声が大きくなる
- 天皇:軍縮会議決定内容に裁可を与えたあと、海軍が反対だと言いに来て驚く
- 海軍・野党:ロンドン軍縮会議について「統帥権干犯」を持ち出す(軍のトップは天皇なんだから軍のことは政府ではなく天皇が決めるべき、という考え)→「軍の決定には首相であろうと口出しできない」という考えが確立
- 政府:条約に批准
- マスコミ:健全な議論「統帥権干犯など野党が倒閣をもくろんでいるだけ」
- 海軍:軍縮会議賛成派と反対派に分かれ、賛成派は去り、反対派が要職へ
1931年 昭和6年~1932年 昭和7年
- 政府:松岡洋右(満州鉄道副総裁)「満蒙(満州・モンゴル地域)は日本の生命線である」→ 大衆に広まる
- 松岡洋右(1932年)
- マスコミ:満蒙問題は武力で解決すべきでない、という論調
- 天皇:陸軍大臣に「軍紀がゆるんでいるようだから引き締めるように」、若槻首相に「満蒙問題については日中親善を基調にせよ」と指示
- 陸軍:「軍紀を引き締めよ」と天皇に叱責された陸軍大臣の命を受けた建川作戦部長、関東軍を説得するのに飛行機ではなく汽車を用いわざとゆっくり中国へ行き、結局関東軍に飲みつぶされる → 関東軍、柳条湖事件を起こす(満州事変の始まり)
- 柳条湖事件の鉄道爆破地点(線路は修復されている)
- 建川美次
- マスコミ:新聞が突然関東軍擁護にまわる(朝日も毎日も臨時費100万円を使って宣伝、部数拡大)
- 政府:若槻礼次郎首相「すでに(満州に)入ってしまったのか?それじゃ仕方ないじゃないか」(柳条湖事件の追認)
- 若槻礼次郎
- アメリカ:日本による中国侵攻は不戦条約違反だと通牒(それまでは日本には比較的融和的だった)
- 天皇:「関東軍はよくやった」勅語発表(※半藤氏曰く「昭和天皇のやった一番の大ミス」)
- 政府:満州国建国
- 満州国建国(執政就任式)。清朝最後の皇帝・愛新覚羅溥儀を満洲国執政(のち皇帝)とする満洲国の建国を宣言
- 陸軍:柳条湖事件首謀者である本庄司令官・石原作戦参謀ら、本来死刑のはずが栄転(※半藤氏曰く「昭和がダメになった瞬間」)
- 本庄繁(1933年)
- 石原莞爾(1934年)
- 中国:国内で国民党と共産党が戦っているため日本軍に対抗しきれない状況
1933年 昭和8年
- 天皇:「(国際連盟を)脱退するまでもないのではないか、まだ残っていてもよいのではないか」
- 政府:国際連盟脱退 → 外国の情報が入ってこなくなる
- 陸軍:ゴーストップ事件(軍の信号無視を巡り陸軍と大阪府警が対立、警察も引かず、最終的に和解)(軍にたてついた最後の事件)
1935年 昭和10年
1936年 昭和11年
- 陸軍: 2.26事件 → 軍は以後、テロの恐怖をもって体制を動かすようになる
- 二・二六事件の叛乱軍
- 天皇: 2.26事件に対し最初から鎮圧を指示
- 政府:広田内閣、軍部大臣現役武官制(現役の軍人でなければ陸軍・海軍大臣になれない)開始 → 内閣をつぶすもつくるも軍の思いのまま
- 広田弘毅
1939年 昭和14年
- 国家精神総動員法制定(パーマ禁止等、国民生活の統制が厳しくなる)
- 国家精神総動員法に基づくスローガン
- ドイツ・ソ連:独ソ不可侵条約締結
- 陸軍・海軍:三国同盟を推進していた参謀本部、独ソ不可侵条約に仰天(世界の流れが見えていなかった)
- 天皇:英米協調を指示
- ドイツ・ポーランド:第二次世界大戦勃発(ドイツがポーランドに侵攻開始)
1940年 昭和15年
- 斉藤隆夫議員、日中戦争が解決していないことを批判 → 陸軍に除名される(議会の最後の抵抗)
- 斉藤隆夫(1929年)
- アメリカ:日米通商航海条約の廃棄を宣告、屑鉄(鉄材)の日本輸出を禁止
- 陸軍・海軍:北部仏印(フランス領ベトナム)進駐
1941年 昭和16年
- 政府:ドイツ・イタリアと三国同盟締結
- アメリカ:二人の神父と一人の日本人による「日米諒解案」(妥協案)を提案 (参考:公文書に見る日米交渉(国立公文書館アジア歴史資料センター))
- 政府:軍も政府も「諒解案」に賛成したが、近衛首相が「松岡外務大臣が帰国するまで待とう」→ 松岡、諒解案を断る
- 駐米野村大使、アメリカ・ハル国務長官と交渉 → アメリカ「日本は三国同盟から外れろ」「中国・国分仏印から撤退せよ」「満州国にアメリカにも機会を与えよ」
- 政府:7月2日御前会議「対英米戦争も辞せず」
- 陸軍・海軍:南部仏印進駐
- サイゴン市内の日本軍
- アメリカ:対日石油輸出禁止(その直前に日本の在米資産も凍結)
- 天皇:(9月6日開催の第2回御前会議議題案を見て)「第一に戦争準備、第二に外交交渉とあるが、順序が逆ではないか」→杉山参謀総長「日米にことが起これば南方は3ヶ月で片付けます」→天皇「支那事変の際、1ヶ月で片付くと言ったのに4年たっても片付いていないではないか」→杉山「支那は奥地が広く作戦がうまくいきませんでした」→天皇「支那より太平洋のほうがもっと広いではないか」→ 杉山参謀長応えられず
- 杉山元(1944年)
- 政府:近衛首相、アメリカ・ルーズベルト大統領にサミットを提案
- アメリカ:ルーズベルト大統領、日本とのサミットを断る
- 政府:10月18日、陸海軍の不一致を理由に近衛首相辞職、2日後に東条英機内閣成立(東条は開戦論者)
- 東条英機
- マスコミ:各新聞、勇ましい論調。東京日日新聞「一億総進軍の発足」
- 政府:アメリカに「仏印から撤退するから石油を輸出してほしい」交渉開始
- アメリカ:ハルノートにより日本の交渉を全否定「満州事変以前(1931年)の状態に戻せ」
- フランクリン・ルーズベルト大統領との会談のためにコーデル・ハル国務長官と共にホワイトハウスに向う野村吉三郎駐米大使(左)と来栖三郎特命大使(右)(1941年11月17日)
- 政府:12月1日、第4回御前会議にて対米開戦決定
- 日本への宣戦布告に署名するフランクリン・ルーズベルト
本書を読んで感じたこと
- 戦争に至るまでの道は決して急なものではないし、途中で別の道を選べるチャンスもいくつもあった。対米開戦についても、開戦直前は「アメリカが強硬だから日本に選択肢はなかった」のかもしれないが、アメリカをそうさせた種ははるか以前に日本がまいていた。
- 人事がだめだと組織が暴走することを改めて学んだ。柳条湖事件首謀者が栄転したり(この記事では書いていないがノモンハン事件の指揮官も同様)、関東軍に重要なメッセージを伝える役目がいやさに飛行機ではなく鉄道を使って満州に行くような人が作戦部長だったり。
- マスコミが戦争をあおった面は大きいようだ。でも、そのあおりに全力で応えたのは国民、とも言える。マスコミだってほとんどは営利企業、つまり国民が読みたいもの・見たいものを届けて利益を上げていく組織である、ということには意識的になったほうがいいように思う。
- 昭和天皇が気の毒だった。即位間もない20代半ばから20年間(終戦まで)、戦争を避けるために様々な働きかけをしていたにもかかわらず、「神様」のわりに意向をかなり軽視されたり部下が無能だったりで開戦に至ってしまう。戦争責任ゼロとは思わないが(主に終戦のタイミングなどについて)、同情できる面もある。
- ブロガーちきりんさんの本書に関するツイート「(略)日本はちょっと上手くいくとすぐ有頂天になる。バブル期に日本的経営システムがサイコーだ!みたいになってたのも同じ。 」 → よしてるによるメンション「『ちょっとうまくいくとすぐ有頂天に』その通りだと思います。自分に自信がない人ってそうなりがちな気がしますが、日本もそうなのかも。」
選書理由
なぜこの本を選んだのか。それは、ちきりんさんの紹介がきっかけです。ちきりんさんのブログは、よしてるにとって、時には賛同できないこともありますが多くはおもしろく刺激があり「考えるきっかけ」をもらえるものです。とすると、ちきりんさんが薦めるこの本も「考えるきっかけ」をもらえる本なんじゃないかと考えたわけです。
実際、本書はちきりんさんの紹介文のとおり「昭和の64年間が日本にとってどんな時代だったのか、俯瞰しつつ理解でき」(よしてるはまだ終戦までの分しか読めていませんが)、「語り口調で書いてあるので、この手の本としては比較的、読みやすい」ものでしたし、上記のように戦争に至る道について考えるきっかけをもらえました。
このメモの英訳版