庭を歩いてメモをとる

おもしろいことや気になることのメモをとっています。

アンドルー・ゴードン「日本の200年」(下)

日本の200年〈下〉―徳川時代から現代まで

上巻に引き続き下巻を読み終わってみて。

今まで読んだ日本の近現代に関する歴史本の中で、個人的に一番楽しめ、ためになりました。理由は、上巻でも述べた「広範囲な対象を簡潔に記述している」「その当時の労働者・一般市民にも光をあてている」「客観性を保っている(と思われる)」というところですが、下巻を読んで、新たに「戦後の記述がしっかりしている」点が加わりました。具体的には、1990年代の政治・経済の動きまで「歴史」としてしっかりフォローしてある点がよかった。「失われた10年って何がどうなったの?」とか、「民主党ってどこから発生したんやったっけ?」という、その程度の理解しかなかった私には助かった次第です。


上巻に引き続き、私の疑問に対するこの本なりの答えと、興味深かったところをメモしておきます。長いです。


■なぜ日本は戦争を始めたのか?なぜもっと早く終わらせなかったのか?

満州事変からどんどん泥沼にはまりこんで日米開戦に至るまで、誰がどう考えてことを進めていったのでしょうか。もちろん戦争を支持した人たちも日本によかれと思ってやったはず。その「考え方」とはどんなものなのでしょうか。

佐官級の将校たちが独断で起こした行動は、満州の占鎖を引き起こすきっかけとなったが、軍の最上層部は、アジアでの単独帝国主義への方向転換を支持した。たとえば、宇垣一成陸軍大将は、軍部内では非常な穏健派として知られており、・・・一九三〇半から三一年にかけて恐慌が深刻の度を増すのにともない、宇坦は、日本が構造的危機に直面していると考えるようになった。宇坦は、左翼、右翼双方の過激派の暴力行為を非難したが、かれらと同様に、日本を弱休化させ無秩序にさせている根本原因は、資本主義と民主主義が野放し状態になっていることにある、と考えた。・・・日本としては生産性を向上させ、失業を軽減し、「社会を悲惨に導」かないためには市場の確保が必要であり、そのためには、もっと積極的な外交政策をとる以外に道はない、と断言した。
軍事行動がはじまるやいなや、大半の日本の庶民はもちろんエリートも、一九三一〜三二年における事態の進展を手放しで歓迎した。新聞は日本軍の前進を熟狂的に伝えた。ニュース映画とラジオは競いあって、最新の戦況をセンセーショナルに報じた。かつての左翼は見解を変え、満州の占領は、失業を減らし国民全休に恩恵をもたらすことを約束しているものであって、資本家的帝国主義的な侵略行為ではない、と主張した。日本帝国が満州国という輝かしい「王冠」を手に入れたことを祝い称える、新しい歌謡曲や、歌舞伎の新作、さらにはレストランの新しいメニューさえも登場した。

現在の日本社会の根本に位置する資本主義と民主主義が害悪とみなされ、経済問題解決の策として満州をつくったのですね。今からだと想像が難しい展開ですが、当時は画期的で有効だと思われたようですね。

一九三〇年代の政治の特徴となったもっとも重要なふたつの傾向は、軍隊内部で依然として騒然とした状態がつづいていたことであり、陸軍が、官僚機構、宮廷、政党を凌駕する力をふるうようになったことである。このふたつの傾向は、相互に開運しあっていた。政党内閣離れが起きた理由のひとつは、軍隊内の血気にはやる将卒を抑えられるのは軍部の宮脳たち以外にはいない、と重臣たちが考えたことだった。・・・これらの将校たちと一部の民間人の同調者たちは、政党や財閥の影響力を排除したいと考えただけでなく、現状維持志向の強い重臣たちや宮中の廷臣たちの影響力を排除することも望んでいた。かれらは、精神教育と天皇への忠誠が、国力の基礎として重要だと強調した。このグループ内の比較的若い治動家たちは、とくに荒木貞夫が一九三二年から三四年にかけて陸軍大臣の任にあったときにはそうだったが、荒木ら軍の最上層部からも支持されていた。

軍隊が力を増すようになったきっかけは、軍に過激な思想をもつ人たちが増える→政党内閣では抑えきれない→軍のことは軍部に、という悪循環から起こったようですね。ふむふむ。

で、結局日米開戦に踏み切るわけですが、時々聞く意見としては、「アメリカが日本を追い込んで、戦争を仕掛けるようにし向けた。日本は戦争をやむなく始める他なかった」というものがあります。これについては著者はどう考えているのでしょうか。

一九四〇年と四一年にアメリカが日本の侵攻を阻止しようとして取った行動をみて、日本のリーダーたちがもはや戦争は避けられない、と確信するにいたったのはたしかである。このことを根拠に、歴史家のなかには、アメリカが戦争に向けて踏みだした、としてアメリカを非難する向きもある。しかし、アメリカの対応がちかっていたら戦争が回避された、とする議論には難点がある。アメリカが懐柔的な態度で対応していたと仮定した場合に、膨張主義の論理がどのようにはたらいたかを考えてみれば、日本軍はアメリカの対応を弱さの表われととらえて、侵略的な姿勢をいっそうエスカレートさせたにちがいない。・・・一九三一年以来、帝国の境界緑土で緊張が起きたさいには、かれらは一貫して、その場にとどまったり一歩後退するのではなく、前進をつづけるという対応をとりつづけてきた。

私もまったく同じ意見です。しかし、では当時の日本はどうすればよかったのでしょうか?その答えはこの本には書かれてありませんし、私にもわかりません。ここは自分の意見を持ちたいポイントなのですが、そうなるためにはもっといろんな本を読んでしっかり考える必要がありそうです。

さて、始まってしまった太平洋戦争。もっと早く終わらせていれば、犠牲者はもっと少なくてすんだはず(これも後からだから言えることかもしれませんが)。この点についての天皇の判断はどうだったのでしょうか。

一九四五年二月、近衛は、陸軍の強硬派からイニシャティブの奪回をはかるために、思いきった賭けに出た。近衛はいわゆる近衛上奏文をみすがら直接天皇に提出して、戦争の早期終結を進言したのである。近衛は裕仁天皇にたいして、無条件降伏という代償を払ってでもアメリカとの和平を進めるべきだ、と強く勧め、それ以外には、「国民を悲惨な戦禍から救(い)、国体を維持し、皇室の安泰をはかる」道はない、と主張した。天皇は興味をそそられた様子だったが、近衛の進言に洽って首相の交代をはかり政争の早期終結に意欲的な人物を首相に据える、ということはしなかった。

少なくともこのときに「ご聖断」があれば、東京大空襲も原爆もなかったのですね。しかし天皇にだけその「決断の遅さ」を非難するのも公平性を欠くと思います。この本によると、鈴木首相や重臣たちは、この先には「死と破壊だけが続くだけだという確定的な事実よりも、和平が天皇の地位の消滅をもたらすかもしれないという不確定性のほうを、より深刻に恐れたのである」とあります・・・

さて、この戦争での日本の被害者数はどのくらいの規模だったんでしょうか。大事な情報なのに、きちんと知らなかったので、メモしておきます。

一九三七年から四五年までに約一七〇万人の日本兵が戦死した。戦争が終わったのちにソ連の捕庸収容所で死んだ元兵士は、三〇万人にものぼった。空襲は、すくなくとも、九〇〇万人の住まいを奪い一八万の民間人の命を奪った。二発の原子爆弾は、このほかに二〇万人の命を瞬時に奪った。・・・被爆後の何カ月、何年ものあいだに、なかなか消えることのない放射能被爆の影響によって、さらに一〇万人以上の命が奪われた。このように合計二五〇万人近くの日本人が戦争で命を落とした・・・

250万人といえば大阪市の人口とほぼ同じです。改めて、本当に大きな悲劇だと思います。この本で恥ずかしながら知ったのは、その内訳におけるシベリア抑留者の数の多さです。原爆の被害者と同じとは・・・


■なぜ日本は戦後大きな経済成長を遂げられたのか?

これも以前からの疑問です。この本では、このようにまとめています。

国際的な幸運のめぐりあわせは、資本主義世界全体に微笑みかけたはずである。そのなかで、なぜ日本経済はずば抜けた高速度で成長したのか? 国際的な要因のいくつかは、他の国々よりも日本にとってより有利に作用した。米軍が駐留しつづけたことと、日本の再軍備が憲法の制約を受けていたことから、日本が多額の軍事支出を免れたのがひとつ。日本経済がドッジ・ラインのデフレ政策のために瀕死状態に陥っていたときに朝鮮戦争が勃発して、特需ほかの輸出を刺激したのも、もうひとつの要因だった。また、一九四九年から七〇年代はじめまでの期間、日本にとって有利な為替レートは、一種の輸出補助金的な機能を果たした。
しかし、経済成長を十分に解明するためには、国内的な要因についても検討することが不可欠だろう。国内要因のひとつは、企業家精神である。比較的年齢も低い、新しい世代の大胆な経営者たちが、既存の企業の経営を引き受けたり、新しい企業を起こしたりした。戦時経済の運営に当たったトップ経営者の多くが、占領期のパージによって早期の引退を強いられたという事情も、これらの新世代の経営者たちの台頭を促す要因たった。

結局は「運がよかった」ってことなのかもしれないですね。ただいずれにしても、この時代の人たちがその運を逃さずに大いに努力して働いたっていうことが基本にあるとは思います。


■朝鮮半島への政策

上巻で記載されていた朝鮮半島への「文化政策」を見る限りでは、日本は朝鮮の発展を促したようにも考えられます。その政策はその後どのくらい続いたのでしょうか。

日本の支配者たちは、新たに設立した満州国のための政策を策定してゆく過程で、以前からの植民地である朝鮮と台湾にたいする戦略も変更した。かれらは、植民地を安定させ、地元で利益を追求するだけではもはや不十分と考えた。そして拡大する帝国を維持するために、人的・物的資源を動員するための場所として、植民地を定義しなおした。朝鮮では、一九三一年に朝鮮総督に就任した宇垣一成は、野心的で威しい経済・社会政策を実施した。農業部門については、植民地当局は農民たちに、地元民のための食糧ではなく日本向けの工業原料として、綿花の栽培と羊の飼育を強制した。宇垣の植民地政府は日本企業にたいしても、朝鮮での戦略上重要な鉱物・金属資源の開発、発電所建設、化学物質(爆薬)や肥料の生産、鉄鋼生産などに投資するよう呼びかけた。朝鮮人の企業家のなかにも、産業を興して利潤をあげた者もいた。しかし、所有者が日本人と朝鮮人のどちらであるかにかかわりなく、ほとんどの産業は、ますます軍事化の様相を強めていた日本経済に製品と資源を供給するために、朝鮮の低廉な労働力に頼った。人的資源を動員するために、宇垣は学校教育で、民族同化に向けた高圧的な学習計画をいよいよ推し進めるようになった。とりわけ、日本語による必須授業をふやし、朝鮮語を敦えることを大幅に制限した。一九三〇年代末には、学校での朝鮮語の利用は完全に禁止された。

満州事変のころから植民地政策が変わったのですね。こうしてみると、満州事変を起こした関東軍とそれを黙認した軍部が「ミスリード」の端緒、という気がしてきます。


■米軍基地

米軍兵による犯罪についても、きちんとしたデータを把握していなかったのでメモしておきます。

米軍基地の近くに往む住民たちは、基地の騒音や、水兵が犯す暴力犯罪や強姦などが絶えないことを忌み嫌った。一九五二年から七〇年代の終わりまでの一八年間に、水兵がらみの交通事故が数万作発生したのに加え、非番の米兵と日本の民間人を巻きこんで発生した事件は一〇万件を上まわった。事件の大半は、強姦や殺人をふくむ暴行事件だった。おなじ一八年間に、事件ないし事故で末兵に命を奪われた日本人は、約五〇〇人にのぼった。

18年で500人ってことは、年約28人。2008年の殺人事件数(殺害者数ではないですが)が1300件なので、年28人というのは事故を含んでいるとはいえ、かなり多いと思います。


■将来に残された問題

この本の結びには、著者による日本の「将来に残された問題」が記されています。それは以下の通りです。
・男女の平等の実現
・日本社会における外国人の地位の問題
・日本がどんなグローバルな役割を担うのか(在日米軍、PKO、歴史認識問題含む)

はじめの二つは意外に感じますが、アメリカ人で、日本の労働問題を研究してきた著者からすると、自然な問いなのかもしれません。私としては、少なくともこういう視点が存在する、ということは学べたかな。


最後になりましたが、ここにあるメモは私にとって興味深いものですが、これをすべてと考えないようにだけはしたいと思います。宇垣氏の朝鮮総督としての評価一つとっても、他の本などでは肯定的なものもあるわけです。事実はひとつでも、評価はまちまち(そもそも、事実認定からして本によって違うのが歴史、ですよね)。これからも、様々な異なる視点による歴史本を読み、特に日本の近現代については、自分なりの考えがもてるようになれれば、と思います。この本は、そのための大きな助けになりましたが、この本にだけ依拠して物事を考えることはしないようにしたいです。


(広告)