もうすぐ、祖父母が90歳になります。私のちょうど3倍を生きてきた二人が見てきた世の中はどんな変遷をたどってきたのか知りたくなって、いろいろと話を聞いてきました。二人の了解が得られたので、ここに掲載します。
※インタビュー実施及びメモ作成:2001年5月。当時旧サイトに掲載していたメモに写真を追加し再アップしたものです。(質問作成協力:友人きなみ氏)
祖父母のプロフィール
祖父
1911年(明治44年)生まれ。旧制中学を卒業後、1966年(昭和41年)まで国鉄にて勤務、梅小路(現・京都貨物)駅長、大阪鉄道管理局企画室長などを務める。
趣味は音楽(バイオリン、トロンボーン、三味線、長唄)、切手・コイン収集、園芸など。たばことコーヒーを欠かさない。
旧制中学時代(1920年代前半)、バイオリンに興じる祖父。
祖母
1912年(明治45年)生まれ。小学校卒業後奉公に出るなどして働いているとき祖父と知り合い結婚。1女4男を育てた。園芸と田辺聖子の小説が好き。
社会全般について
Q:戦前、戦後すぐ、高度成長期、バブル期、現在のなかで、一番よかったと思う時代は?(生活、政治、治安など)
(祖父)現在がよい。自由な暮らしができているから。
(祖母)現在がよい。豊かだから。戦前もよかったようにも思う。豊かではなかったが、皆がものを欲しがらなかったから。
Q:日本人のモラルは下がったと思うか?(公衆道徳が低下したと言われる反面、さまざまな差別が解消に向かっているとも言われるが?)
(祖父)差別なども解消に向かっていると思うし、よくなっているのではないか。
(祖母)表面的には今の方がいいと思う。ニュースでは少年犯罪などについて聞くが、実感はない。
Q:世の中を一番変えた機械や商品は何だと思うか?
(祖父)車は大きく社会を変えたと思う。しかし、今は行き過ぎだ。ひとつには、持つ必要のない人まで持っていて、社会全体の効率はむしろ低下している。もうひとつは、公害問題だ。少なくともディーゼル車は全廃すべきだ。 ※よしてる注:2016年現在、ディーゼル車とガソリン車の相違点はそれ以前に比べ縮まっているようです。
(祖母)水道が通ったときはものすごく便利になった。印象で言うなら、テレビと洗濯機が我が家に来たときのことは忘れられない。
戦争・天皇について
Q:戦争が始まったときどう思ったか?
(祖父)えらい(大変な)こと始めたなあと思ったが、満州事変などが事前にあり徐々に拡大していったので、太平洋戦争で急に「戦争が始まった」というイメージはない。
Q:戦争が終わったときどう思ったか?
(祖父)「命が助かった」と思った。 ※よしてる注:祖父は戦場に出ていません。身長が低すぎたため兵役試験に合格できなかったとのこと。
(祖母)「やれやれ」とほっとした。
Q:戦争に負けると思ったか?思ったとしたらいつごろか?
(祖父) 最初から、勝てるとは思っていなかった。大阪の職場から神戸の空襲を見たときに(建物の2階からでも神戸まで見渡せた)、「いよいよだめだな」と感じた。
1945年の大阪駅周辺(Wikipedia Commonsより)
(祖母)勝てるとは思わなかった。戦争中、「大本営の言うてることはほんまやろか?」と近所の人につい話して、「憲兵に聞かれたらどうするの!」とたしなめられた。
Q:招集されたときに心の底から名誉なことと思っていたか?
(祖父・祖母ともに)招集されて心から喜んでいた人は一人もいなかったのでは。出征すること=死にに行くこと、だった。
ただ、体が弱くて不合格になった人などは、それなりに恥ずかしそうにはしていた。
Q:戦争中は「鬼畜米英」だったのに、敗戦後すんなり占領軍を受け入れたのはなぜか?
(祖父)占領軍が初めて和歌山に上陸するとき、国鉄としてどう出迎えるかの会議をした。そのときの出迎えメンバーに、「俺がアメリカ兵を汽車に乗せて、その汽車もろとも転覆させたる」と息巻いて出迎えに行った者がいた。ところが彼は無事に帰ってきて、「アメリカ兵はすごい。紳士だ。たいしたものだ」と豹変していた(具体的に何があったのかは聞いていない)。
思うに、占領軍の第一弾は、相当日本のことを勉強してきた精鋭だったのではないか。 大きなトラブルも聞いたことがなかった。
また、物のない時代に、たくさんの物を持っているのも魅力だった。日本人が心を開きやすい要素はあっただろう。
ただ、国民が当初占領軍を恐れていたのはたしかだ。ある駅に到着するアメリカ兵の一団を迎えに行ったとき、その駅の周辺には人っ子一人いなくなっていた。みんな家の中に閉じこもっていたようだ。
とはいえ、占領軍が来て3日目には、汽車に乗ったアメリカ人のほとんどに日本女性がくっついていた。
(祖母)アメリカ兵が来たら、女性は家から出るな、とはよく言われていた。
Q:天皇は神だと思っていたか?どう思っていたか?
(祖父・祖母ともに)人間と別の生き物だとか、神の子孫だとは思わなかった。ただ、(昭和天皇を)相当優秀な人だとは思っていた。
そういう意味で、当時の大部分の日本人は天皇を尊敬していたのではないか。そうでなければ、暴動でも起こっていたのではないか。
Q:戦争が終わって、天皇は処刑されると思ったか?
(祖父・祖母ともに)思わなかった。アメリカは紳士的だったので、そこまでしないと思った。
人生について
Q:人生でいちばん重要なものは何か?
(祖父)まず健康。
そしてパートナー。男は、女が人生の活力になる。伴侶で人生が決まる。
それから、人に好かれること。友達は重要だ。
楽しむことも大事。楽しまなければ、生きている甲斐がないのでは。
(祖母)健康。夫の健康のことを常に考えていた。
Q:今までに一番うれしく思ったことは?
(祖父)宇治駅で、判任官になった(幹部登用試験に合格し、正式に国家公務員に任ぜられた)とき。
終戦のとき。
(祖母)紡績工場で「親孝行手当」をもらったとき。
工場では、1日1円の賃金で、1ヶ月に休みが1日だけしかなかったので月30円ほどの収入だったが、父が病気で、薬代に月18円かかっていた。
そんなとき、突然工場の人に呼ばれ、父の看病にどれくらいかかっているか訊かれた。「今のままでもなんとかやっていけています」と答えたが、翌月から「親孝行手当」として月50円の月給となった。
Q:悲しく、または残念に思ったことは?
(祖父)国鉄に入ってすぐ、生意気だということで地方に転勤を命ぜられたとき。
(祖母)今から思うと特にない。
Q:驚いたことは?
(祖父)今すぐに思い出せる事件はない。
(祖母)夫が手術をしたとき(手術は成功した)。
Q:何十年も夫婦で一緒にいられるための秘訣は?
(祖父)月並みだが、愛情ではないか。本来、秘訣というのは平凡なものだ。
(祖母)感謝の気持ち。義理の親元がいい人たちだったこと。
Q:やっておけばよかったと思うことはあるか?
(祖父)とくにない。人生満足だ。仕事が充実していたのが何よりだった。
(祖母)文章をきちんと書けるようにしておきたかった。
追記
祖母は2003年12月に、祖父は2011年12月に死去しました。二人とも亡くなる10秒前までいつもと変わらぬ生活をしていました。
2016年の大阪駅周辺(よしてる撮影)