「利己的な遺伝子」で有名な生物学者ドーキンス博士。人間が神の創造物であるどころか遺伝子の乗り物に過ぎないというような本を出している彼がこのタイトルの本を出したということは、内容は宗教への痛烈かつ論理的な批判のオンパレードなのだろうな、と思っていました。
しかし実際に読んでみると、それは内容のごく一部でした。では、宗教への批判以外にどんなことが書かれていたのか?その中で興味深かったところをメモします。
なぜ宗教は生き残ってきたのか−プログラムの「誤作動」
遺伝に関するドーキンス博士の考えを宗教にあてはめると、こうなるかと思います。「もし神が妄想であり宗教が有害ならば、なぜ宗教は現在でも、世界中のどこでも見られるのか。人類が宗教を信じるのは、それが人類が生き残るのに有利な何かを提供するからではないのか」私も同様の疑問を持っていました。それに対するドーキンス博士の回答は以下です。
- 人間はほかのどんな動物よりも先行する世代の蓄積された経験によって生きのびる強い傾向をもっており、その経験は、子供達の保護と幸福のために、子供に伝えられる必要がある。
- たとえば、「崖っぷち近くまでは行かないように」「ワニの潜む川では泳がないように」というような言いつけを聞くかどうか。
- 大人の言うことを疑問を持つことなく信じる子供は淘汰上の利益がある(大人の言うことを信じにくい子供よりも生き残って子孫を残せる可能性が高い)。だから「疑問を持つことなく信じる」人間が増えていく。しかし、この「疑問を持つことなく信じる」という傾向は「誤作動」することがある。それが宗教なのだ。
誤作動とはどういうことでしょうか。例として、博士はいわゆる「飛んで火に入る夏の虫」を挙げています。
- ガはろうそくに飛び込む習性がある。
- ガはなぜそんな生存を脅かすような習性を持っていて、それが今も残っているのだろうか。そんな習性を持っているガは生き残れないのではないか。
- ガは月や星の光をコンパス代わりにして正確な方位に進むことができる。何億年も前から、夜の光といえば、通常は月か星のものしかなかった。そのため、この「夜の光を感知して正確な方向に飛べる」能力をもったガは生き残りに有利となった。
- しかし、人間がろうそくを作ってしまった。ガの、光をコンパス代わりにする遺伝上のプログラムには「ろうそくは例外。飛び込むと危険」というような危険防止装置はついていない。
- そのため、この習性はろうそくを危険なものと感知できず、正確な方位を測定できず、結果的にガをろうそくに飛び込ませてしまう(月や星のようなはるかかなたにある光(平行光線)と違って、ろうそくの火のようなすぐ近くにある光をコンパスに使うと、その光に向かって進むことになってしまうのだそうです)。
宗教の話に戻ると、このガのように、本来なら生き残るのに有利な「疑問を持つことなく信じる(特に子供が)」という傾向が、生き残りの有利さに関係ない情報に結びついてしまった(誤作動した)結果が宗教、というわけです。
なぜ、個人がお互いに対して利他的になれるのか?
しかしこの考え方だと、宗教を信じるきっかけは説明できますが、それを信じ続ける説明にはなっていない気がします。子供は、小さいころには素直に親の言うことを聞きますが、成長するにつれ逆に言うことを聞かなくなるものです(私は父親として、それを実感し始めています)。やはり宗教には「いいこと」があるから人はそれを信じ続け、またそれが広まるのではないか。そんな疑問が成り立つ気もします。
宗教が世の中にもたらす「よい効用」としては「人々が互いに助けあい親切になる」というのがあるかもしれません。宗教組織または関連団体による恵まれない人への支援施設・行動はたくさんありますし、自分が人に助けを求めるとき、目の前に普通の家とお寺と教会があったら、普通の家は一番後回しにします。人間は宗教があってこそ道徳を保っている、そんな理屈も世の中には存在するかもしれません。
これに対しドーキンス博士は、人間がなぜお互いに対して利他的になれるのかについて、これまた生物学的観点から説明してくれています。
- 遺伝的な血縁のため(自分と同じ遺伝子を多く持った人、つまり血が近い人は助けたくなるようプログラムされている)
- 与えられたお返しと、お返しを予測した上での恩恵(お返しをきちんとしているとその集団で生きていきやすくなる。動物でも同様)
- 気前よく親切であるという評判を獲得する利益(これも集団の中で生き残るため)
- 広告効果(自らの優位を確認しそのことを他の個体に知らしめることで、生き残る率を上げる)。この考えは動物学者アモツ・ザハヴィによるもので、アラビアヤブチメドリが群れの中で「見張り役」という危険な役を競い合う行動をすることから、この考えを思いついた
もちろん、上記の理由は、困っている人を助けようとする善意の人が上記のように「自分が生き残る上で有利だから」と考えている、などと説明しているわけではありません。でも、困っている人を見て助けたくなる気持ちは「利己的な遺伝子」のセオリーから特に外れているわけではなく、宗教がなければ持てないものでもない、ということをドーキンス博士は言いたかったのだと思います。
参考
なぜ人間は宗教を信じやすいのか
それでは、人間はなぜ宗教を信じ続けるのか?その理由の一つは、人間によく見られる「考え方」によるものだそうです。
その「考え方」とは以下の2つ。
- 二元論:物質と精神のあいだに根本的な区別を認める考え(人間は肉体と霊魂で成り立っている、など)
- 目的論:存在するものは何かの目的を持っている、という考え(雲は雨を降らせるためにある、など)になりやすい。
人間はこの二つの「考え方」を持ちやすいから、宗教をたやすく信じがちだというのです。
たしかにこれらは、現実と異なっていると頭ではわかっていても、割と自然に受け入れられやすい考え方だと思います。つい先日も私の小学校低学年の息子に、最近死んだペットのやごのなきがら(=肉体)は埋葬したけどもう天国で(魂は)とんぼになっているかも、と話しても「それはおかしいよ。だれがたましいなんて見たことがあるの」などは一切言いませんでした。それに子どもどころか大人でも、肝心なときに調子が悪くなるPCに、まるでPCが自分に仕えるという目的を持った存在であるかのように悪態をついたりするのは一般的な気がします。
どうしてそうなるのか。ドーキンス博士によると「目的を想定する方が生き残りやすいから」とのことです。
例えば、トラに出会ったときは、トラを構成する分子のことを考えたり爪や牙の構造を気にするよりも、相手の「志向」(自分を食べようとしている)を考えたほうが生き残りやすい。そりゃそうだ。
これで人間が「目的論」を持ちやすい理由は一応説明できる気がします。ただ、なぜ二元論になりがちなのか。その理由は、私の読解力の問題かもしれませんが、本書で見つけることはできませんでした。
以上、長々と書きましたが、この本で著者が最もいいたいことは、神が妄想であるとかここで書いた宗教の存続理由とか、そういうことではなかったようです。それは何なのかを次回のメモで書くことにします。