ダイエットって難しいですよね。つい甘いもの、脂肪分のあるものをたくさん食べてしまう。
同じように、「見た目や習慣・文化が違う人たち」につい警戒心を持ってしまうことも、よくあることだと思っています。
あなたが「日本の多数派*1」だったとして、たとえばお隣に「見た目や習慣・文化が違う人たち」が引っ越してきた場合、少なくともはじめのうちはより緊張感をもってしまうのが普通ではないでしょうか。
そしてもし、その人たちがまったく日本語を解さず、かつ見たことのない外見をしていたりすると、緊張感はより高まるでしょう。場合によっては「なんでよりによってこんなわけのわからない奴が隣に来るんだよ」といら立ちを感じてしまう人もいるかもしれません。そしてそれがエスカレートし、その人たちへの嫌悪感・差別感情をもってしまうことも・・・
実はこのふたつ -「つい甘いものを食べてしまう」ことと「自分と大きく違う人に警戒心をもってしまい、時には差別してしまうこと」 - には共通の理由があると考えています。どういうことか?
なぜダイエットが難しいのか
プログラムどおりだと不健康になる
生き物は進化していきます。正確には、環境に適応した遺伝子が生き残っていく。
つまり「したいことをやれば、生き残りやすくなる(遺伝子を残しやすくなる)」ようにプログラムされていく。
じゃあ、今、私たちは本能のおもむくまま行動すれば生き残りやすくなるのか・・・というと、そうはなっていませんよね。
食事について考えてみます。
食べたいものを好きなだけ食べているとどうなるか・・・もちろん、生活習慣病その他により、不健康になってしまいます。
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特に甘いもの(糖分)や塩分、脂肪分(脂質)はいつのまにかとりすぎてしまいがち。
それに、おなかいっぱい食べると幸せになるけど、毎食そんなふうだと高血圧になったり肥満になったりして、寿命が縮んでしまいます。
あれ?「したいことをやれば、生き残りやすくなる」はずでは?なぜそうならないの?
「飢え」が通常運転だった人類 - 伝統的社会の実例
これは、よく知られた話ですが、人類が「飢餓になりやすい環境に最適化されているまま」だからです。
人類の歴史の中では、そのほとんどの時代(ホモ・サピエンスに限っても25~40万年間*2)、ずっと飢えているのが普通でした。食べ物、中でも甘いもの(糖分)や塩分、脂質*3は「あるときに食べられるだけ食べておかないと、次はいつ食べられるかわからない」ものだったのです。
今も伝統的な社会で生きている人々の食生活を見てみると、そのことがよくわかります。
例えばボリビアのシリオノ族の男性は、一人・一日で肉を14キロ食べたり、1回の宴席で4人で27キロのヘソイノシシを平らげてしまいます。また、アマゾン奥地に住むピダハン族が都市部に来たときには、1日に3度の食事があることに非常に驚いたそうです*4。どちらの部族も、「次はいつ食べられるかわからない」社会にいるから。
ダイエットに努力が必要な理由
人類はこういう生活を何十万年も続けてきたので、「甘いものや塩分・脂質のあるものをおいしく感じるし、腹いっぱい食べることが好きな人=生き残りやすい人」に進化していったのです*5。
まさに「したいことをやれば、生き残りやすくなる」状態。
でも現代では、多くの人の生活する環境が変わり、糖分・塩分・脂肪分も腹いっぱいの食事も簡単に手に入るようになりました。なのにプログラムは「糖分とれ、塩分とれ、脂肪とれ、腹いっぱい食べろ」と作動し続けている。結果、「糖分・塩分・脂肪・満腹が大好きな性質」が健康の邪魔をするようになってしまっています。
これがダイエットに努力な必要な理由です。
何十万年もかけて築き上げた「プログラム」が、現代では適合しなくなってきているというわけです。
さて、以上はよく知られた話だと思うのですが、私はこれと同じことが「差別」にもあてはまると考えています。
なぜ「反差別」が難しいのか
「知らない人=敵」 - 伝統的社会の実例
人類には、見た目がや習慣・文化が違う人にものすごい恐怖や警戒心を抱くような「プログラム」がインストールされているようです。
やはり何十万年もの間、それが「生き残るのに最適」だったからです。
このことも、伝統的社会をのぞいてみることで理解できます。そのためにうってつけのケースがニューギニア高地人社会です。
彼らはあまりにも隔絶された場所に住んでいるので、飛行機がその上空をはじめて飛んだ1938年6月23日まで他の社会から「発見」されなかったくらいですし(西部奥地の場合)、そこではある程度の距離を移動した場合、他の部族のテリトリーに入ってしまい殺害されるのが普通、という社会でした。つまり「知らない人間がいればそれはすなわち敵」だったのです。
だから、そんな彼らがはじめて白人(鉱山師のマイケル・リーハイ他)に会ったときは、恐怖のあまり、大人の男たちが泣き叫んだという記録が写真も含め残っています*6。
それくらいの恐怖心や警戒心がないと、彼らは生き残れなかったのです。
実際、彼らと行動をともにしたアメリカの野鳥研究者は、彼らが実に用心深く行動することに気づきます。木の横で野宿することですら絶対にしないそうです。木がいつ倒れるかわからないからです(実際にそういうことがまれにあることを、その研究者は後で知ることになります)。
かつては全人類にとって「知らない人=敵」が通常運転だった
さて、このようなケースは、他の社会と隔絶されていたニューギニア高地人ならではの特別なものなのでしょうか。
たしかに現代においてはこれは非常に特殊なケースですが、かつての人類はこのように「他の社会とのコンタクトがほとんど、あるいは一切なかった」社会が一般的だったと思われます。
なにしろ紀元前1万年の段階でも全世界の総人口が500万人もいなかったという推計がある*7くらいなので、人類の歴史数十万年のうち、生まれてから死ぬまでの間に「見た目や文化が違う人」と出会うケースは相当レアだったと推測できます。
それだけ長い間「よそ者」とのコンタクトが極めて限られた社会で生きてきた人類には、現代においても「見た目がや習慣・文化が違う人」にものすごい恐怖や警戒心を抱くようなプログラム」が残っていると考えるのが自然でしょう。上述の「糖分とれ、満腹になれ」プログラムのように。
そんな私たちが、外見や習慣・文化が大きく違う人たちに接したときに警戒心を抱くのは、自然なことなのかもしれません。※だから差別はしてもいい、と考えているわけでは決してないですが。
個人的な経験
私自身も、生まれて初めて黒人の男性(イギリスのレストランのウェイター)と身近に接したとき、その人の手のひらが白くて手の甲だけ「黒人の肌」であることを目の当たりにして驚きのあまり数分間口がきけなくなり、そのウェイターさんに「どうかしましたか?」と言われたことがあります。自分の手も同じように手のひらだけ白くて手の甲は「黄色い」のに。
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その時は「人を見た目で判断するのはよくない」というような「モラル」は吹き飛んでいました。言い訳になりますが、モラルより先に「プログラム」が作動したのでしょう。
反差別が難しい理由
でも、現代社会は「他の社会とのコンタクトがほとんど、あるいは一切ない」社会ではありません。
むしろ、自分といろんな面(人種・文化など)で違う人と協力して、お互いの得意なことを出し合い、苦手なことをカバーしあうことで一緒に社会の課題を解決していくほうが「生き残る可能性が高まる」社会です。
栄養摂取と同じで「プログラム」が現代社会に適合しなくなっているのです。
「数十万年間人類の生存に役立ってきた遺伝プログラムが、現代社会には合わなくなってきている」これが、ダイエットと反差別の両方において努力が必要な共通の理由です。
だから何なのか
両者に共通の理由があるとして、では何を言いたいのか。
「プログラム」に従った行動でも、迷惑かつ有害なものがある
ときどき、見た目や習慣・文化が違う人たちについて、根拠のない誹謗中傷*8を語り差別を扇動する人がいます。その人たちや支持者が差別を扇動しつつ「本音で語る」「マスコミが言えない真実をここで明らかにする」などと言っているのを見聞きするたびに、「自堕落に食べ物をむさぼっている人」みたいやん、めっちゃかっこ悪いしそもそも間違ってる、その上社会に有害・・・と思うのです。
いや、この連想は適切ではないですね。差別や扇動は、食べ物をむさぼることなんかよりはるかに社会に有害です。
肥満になっても人に迷惑をかけませんが*9、差別や扇動は人を傷つけ、社会に分断を招くからです。
イメージとしては、きたない話になってしまいますが、差別や扇動を「本音で語る」って、トイレに行かず汚物を公共の場でまき散らして「これが人間の自然な姿、本音の行動」と言っているかのよう。
たしかにそれは「本音」なのかもしれないけど、シンプルに迷惑で、なおかつ有害だから。
私自身はどうか
私も、身体に悪いとわかっていても、ついジャンクフードなどをぱくぱく食べてしまいます。
同じように、人に偏見をもつのは悪いとわかっていても、つい「自分と違う人たち」について見聞きするとその人たちに警戒心を抱いてしまいます。
これらはどちらも人間に埋め込まれている「プログラム」のなせるわざとはいえ、その「プログラム」はもう今自分が生きている社会には不適合なものになっている。このことに自覚的でありたいと思っています。
ジャンクフードをやめるのは無理な気がしますが、「自分と違う人たち」への警戒心を差別・扇動にまで発展させること - 「トイレに行かず汚物を公共の場でまき散らす」ような ー ことだけは、なんとしてもやりたくない。
異質な存在に反射的に警戒心をもってしまうのは、甘いものを食べたくなったりトイレ以外の場所でも便意をもよおすのと同じようなもので、それ自体は「自然な反応」。でも、その次の段階(暴飲暴食や差別扇動)を努力で止めることが現代社会では必要。そう思っていますから。
関連メモ
伝統的社会について詳しいジャレド・ダイアモンド博士「昨日までの世界」について。
反差別についての最も有名なスピーチを聴いて不安を感じた理由。
社会問題について調べたメモのうち、アクセスの多いものをピックアップ。
注釈
*1:日本において多数派の言語である日本語を話し、多数派の人種であるいわゆる「モンゴロイド」であり、多数派の習慣・文化をもっている人。
*3:あまりにもイメージが「太る」に直結していていいイメージのない脂質ですが、実は身体にとってはなくてはならないものです。参考:三大栄養素の脂質の働きと1日の摂取量 | 健康長寿ネット
*4:ジャレド・ダイアモンド「昨日までの世界」ハードカバー版下巻P.333
*5:というか、糖分・塩分・脂質・満腹が大好きな性質の人(遺伝子)だけが生き残った、といったほうがいいかもしれません。
*6:ジャレド・ダイアモンド「昨日までの世界」ハードカバー版下巻P.97~99
*7:ユトレヒト大学"History Database of the Global Environment 3.3"
*8:根拠のある批判や議論は必要です。私は「見た目や習慣・文化が違う人たちはすべて善」などとは思いませんし、原理的にそんなことはあり得ません。ただしその場合、社会的に有利な立場(例:多数派)から不利な立場(例:少数派)を責めるかたちにならないような最大限の注意が必要だと思います。
*9:身近な人を心配させたり、限られた医療リソースを浪費し、健康保険制度へのダメージを与えるというのはありますが。