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(東京から日帰り可)村上春樹さん中高生時代ゆかりの地を歩く-神戸~芦屋~西宮

毎月Zoomで「村上春樹再読会」をやっている三人で、兵庫県下の村上春樹さんゆかりの地を歩きました。

私以外の二人、YさんとAさんは東京から来てくれました。ありがとう!


どこを歩くのか

村上春樹さんは1949年京都に生まれた後すぐ兵庫県西宮市に移り、中学1年の1学期のころ芦屋市に。そして神戸市にある高校に通ったのち早稲田大学に進学するまでそこにお住まいだったそうです。

今回は、この時代の春樹さんゆかりの地を「高校時代 → 中学時代 → 小学校時代」と時の流れとは逆にたどっていきます。

紀行文「辺境・近境」に春樹さん自身がこの地域を歩いたときのことが書かれていますが、今回はそこに書かれた場所だけでなく、他の小説やエッセイに登場する場所にも足を延ばす欲張りなコースですが、所要時間は半日程度。新幹線を使えば東京から日帰りも可能なコースです。

具体的な場所はこちらの地図にて。ふってある番号を以降のメモのタイトルにつけていますのでご参考ください。


(1) 10:54 新神戸駅

東京駅8:12発のぞみ129号が新神戸駅に到着。

到着した2人に、改札から出て左手に見えるANAクラウンプラザホテル神戸は、「辺境・近境」で春樹さんが「肩からバッグを降ろし、サングラスをはずし、深呼吸をし、足を休める」と書いたところ、と説明。到着直後から春樹さん巡りは始まっています。

地下鉄新神戸駅まで歩き、そこからひと駅、三ノ宮駅で下車、徒歩10分くらいで次に向かいます。


(2) 11:30 三宮 「みんなおいしい」トアロードデリカテッセン

春樹さんが高校のときから「はまっていた」というサンドイッチ。

たしかにここのサンドイッチは、春樹さんが関係なくても通いたくなるうまさ。具もパンも。パンは耳がついていてカリッと焼いてあるのがまたよいのです。

サンドイッチ以外のランチメニューもありますが、ここはやっぱりサンドイッチを。3人とも、ローストビーフ、スモークサーモン、ハム、ソーセージの4種が当時に味わえる「ミックスサンド」をいただきました。

1階がテイクアウト、2階がイートイン(季節によっては営業していない時期もあるのでご注意ください)。この時間だからかこのときはすんなり入れましたが、以前13時ごろ伺ったときは一人でしたが20分くらい待ったことが。

僕にとってのサンドイッチの原点は、神戸のトアロードにある「デリカテッセン」のサンドイッチです。スモークサーモンかローストビーフの二種類しかなくて、カウンターで食べるんですが、これがほんとうにおいしかった。パンから、マスタードから、野菜から、みんなおいしいんです。高校生のときからこれにはまっていました。生意気な高校生だったんです。いまでもあるのかなあ。懐かしいです。これを凌駕するサンドイッチにはまだお目にかかれていません。(村上さんのところ)

「今何してるの?」と彼女は言った。「そろそろ昼飯を作ろうかなと思ってたんだ。ぱりっとした調教済みのレタスとスモーク・サーモンと剃刀の刃のように薄く切って氷水でさらした玉葱とホースラディッシュ・マスタードを使ってサンドイッチを作る。紀ノ国屋のバター・フレンチがスモーク・サーモン・サンドイッチにはよくあうんだ。うまくいくと神戸のデリカテッセン・サンドイッチ・スタンドのスモーク・サーモン・サンドイッチに近い味になる。うまくいかないこともある。しかし目標があり、試行錯誤があって物事は初めて成し遂げられる」「馬鹿みたい」(ダンス・ダンス・ダンス)


ここからまた10分ほど歩いてJR三ノ宮駅の南側、阪急百貨店(数年前までそごうだった)の西側にあるバス停「三宮センター街東口」へ。ここからバス「阪急六甲・JR六甲駅ゆき」で兵庫県立神戸高校へ向かいます。

この高校は山側のかなり上がったところにあり、最寄り駅は阪急王子公園駅ですが歩いていくのはちょっとしんどい(がんばればいけますが)。なので三宮からバスでダイレクトに移動します。

ちなみにこのルート、春樹さんの通学路だった可能性もゼロではないようです。芦屋市の自宅からは遠回りにはなるものの、神戸三宮を経由できるので、レコード屋やデリカテッセンに通っていた春樹さんにとってはメリットが大きいはず。この点については次のサイトを参考にしました(ありがとうございました)。
「村上春樹の世界」を歩く No.11 神戸・芦屋・西宮、其の四 神戸高校への通学路を探す - YouTube

25分ほどバスに揺られて「神戸高校前」へ。


(3) 13:00 兵庫県立神戸高校


バス停からさらに坂道を200mほど上がらないといけません。写真ではわかりにくいのですが、かなり急です。



正門。歴史のある学校らしい風格を感じさせる佇まいです。

高校の薄暗い廊下、美しい少女、揺れるスカートの裾、そして「ウィズ・ザ・ビートルズ」。僕がその少女を目にしたのはそのときだけだった。そのあと高校を卒業するまでの何年かのあいだ、彼女の姿を見かけることは二度となかった。(中略)僕の通っていたのは、神戸の山の上にあるかなり規模の大きな公立の高校で、一学年に六百五十人ほどの生徒がいた(いわゆる「団塊の世代」だから、なにしろ人の数が多かったのだ)。(ウィズ・ザ・ビートルズ)

学校は山の上にあって、その屋上からは町と海とが一望のもとに見渡せた。僕らは一度放送部の部屋から古いレコードを十枚ばかりくすねてきて、それを屋上からフリスビーみたいに飛ばしたことがあった。それらのレコードは綺麗な放物線を描いて飛行した。風に乗って、あたかも束の間の生命を得たかのように、幸福そうに港の方にまで飛んでいった。でもそのうちの一枚は風に乗り損なって、ふらふらと不器用にテニスコートに落ち、そこで素振りの練習をしていた一年生の女の子たちを驚かせ、あとでかなりの問題を引き起こすことになった。(国境の南、太陽の西)

学校は山の斜面に建っており、校舎が一番上、その次に大きな運動場、その次がテニスコートです。なので上に書かれたことが春樹さんの実体験だとするなら、レコードを100m以上飛ばす必要があります。それは一年生の女の子たちも驚いたでしょう・・・


帰り道。はるか先に神戸の港が見えます。「ここでスマホ落としたら終わりですね」などとつぶやく私たち。


バス停の近くには屋内運動場があるのですが、その前にある教育方針?を見て私たちは「『剛健』『自重』これ春樹さんに関係ないですよね。むしろ嫌ってそう」「『自治』はあるかな」とか勝手なことを言い合います。


ここから次の目的地までの経路は少々複雑です。まずバスで「神戸高校前」からJR六甲道駅へ。そこからひと駅、住吉駅で六甲ライナーに乗り換えひと駅、魚崎駅。ここでまた阪神に乗り換え3駅目で阪神芦屋駅です。通算で1時間くらいかかりました。距離としてはそれほど離れていないのですが、乗り換えが多いので時間がかかります。タクシーで行くのも手かもしれません。


(4)(5) 14:30 つけで本を買っていた書店・宝盛館、デートしたアンリシャルパンティエ1号店

阪神芦屋駅を降りてすぐ北にある、春樹少年御用達だった芦屋宝盛館で春樹さんの本を買おう!と喜び勇んで行ってみると・・・



なんとお休み。日祝休業なのは押さえていましたが、土曜日も時々休むようですね。まあ、しょうがない。


(2015年の3月にここで春樹さんの本を買ったことがありますので、そのときの写真を載せておきます。)



このお店の北東側の向かいにはあのアンリシャルパンティエの一号店があります。が、今回は時間の関係もあるので素通り。

本店は兵庫県芦屋市にありまして、昔は(というと30年くらい前です)ベイクト・アラスカなんてここでしか食べられませんでした。よくデートした女の子とここに行ったなというささやかな個人的思い出があります。ほんとうにささやかなんですが。地震のあとで行ってみたらまだちゃんとやっていて嬉しかった。その近くにある書店、芦屋宝盛館で僕はいつも本を買っていました。昔はあそこくらいしかちゃんとした書店はなかったんですよね。今では駅前にいろいろとビルなんかもできたみたいだけど、昔は芦屋というとほんとにのんびりした、なんにもないふつうの住宅地だったんです。今久しぶりに帰ってみると、何がなんだかまったく地理がわからないくらいです。もちろん地震でいろんなものががらっと変わっちゃったということもあるのだけれど。(スメルジャコフ対織田信長家臣団)

この2軒のお店の西側50mくらいに、南北に芦屋川が流れています。


(6) 14:40 芦屋川



道路から川に降り、岸を歩きます。

くるぶししかない浅い流れだ。水は昔と同じように澄んでいた。山から直接流れ落ちてくるから汚れようもないのだ。川床は山から運ばれてくる小石やさらさらとした砂地で、ところどころに流砂どめの滝があった。滝の下には深いたまりがあって、そこには小さな魚が泳いでいた。水の少ない時期には流れはそっくり砂地に吸い込まれ、あとは微かな湿り気を残した白い砂の道だけが残る。(羊をめぐる冒険)


そしてこの先にあるのが「五十メートル分だけ残されたなつかしい海岸線」です。


(7) 15:00 五十メートルの海岸線と双子208・209


ここは、現地を訪れることでより深く作品世界を理解できたという点では、この旅最大の収穫だったのかもしれません。

川は小さな入り江のような、あるいは半分埋め立てられた運河のような海に注いでいた。それは幅五十メートルばかりに切り取られた昔の海岸線の名残りだった。砂浜は昔ながらの砂浜だった。小さな波があり、丸くなった木片が打ち上げられていた。海の匂いがした。コンクリートの防波堤には釘やスプレイ・ペンキで書かれた昔ながらの落書きが残されていた。五十メートル分だけ残されたなつかしい海岸線だった。しかしそれは高さ十メートルもある高いコンクリートの壁にしっかりとはさみ込まれていた。そして壁はその狭い海をはさんだまま何キロも彼方にまでまっすぐに伸びていた。そしてそこには高層住宅の群れが建ち並んでいた。海は五十メートルぶんだけを残して、完全に抹殺されていた。(羊をめぐる冒険)

子どものころ遊んでいた思い出の場所が様変わりしてしまったことへの衝撃と落胆。これは多くの大人がもつ経験なのでしょうが、「羊をめぐる冒険」や「五月の海岸線」に描かれたそれが実際のところどういうものであったのか、現地を訪れて少なくともその一端に触れることはできたように感じています。


そして、この砂浜では、見知らぬ双子の女の子たちがずっと踊ったりポーズをとったりしていました。私たちには二人が「1973年のピンボール」他に登場する双子208と209(の少女時代)としか思えません。まるで村上作品の世界に本当にいるかのような錯覚で軽いめまいがしたほどです。

今も、あれはいったい何だったんだろうと思います。こうして写真や動画を撮っていなかったら、夢だったのではないかと勘違いしそうなくらいに。



ここから東に向かうとすぐに、こんな堤防が現れます。

これ、もともとは直接海に面していた堤防だったのです。写真に向かって右の住宅街は、かつて少年時代の春樹さんが泳いだ海。つまり左側の松並木は、かつての防風・防砂林だったわけですね。そして写真奥には「高層住宅の群れ」が見えます。

一時間後にタクシーを海岸に停めた時、海は消えていた。いや、正確に表現するなら、海は何キロも彼方に押しやられていた。古い防波堤の名残だけが、かつての海岸道路に沿って何かの記念碑のように残されていた。(五月の海岸線)


15:20 中学~高校時代のすまい(芦屋市西蔵町)

ここからは、春樹さんが中学から大学入学前までお住まいだった場所、芦屋市西蔵町に向かいます。

現在も人が住んでいる住宅地なので、詳細を公開することは控えます。なお、以下の本には、旧表記ですが住所が記載されていました。本書は90年代初頭に出版された少し古い本ですが、作品評論に加え(単行本化されていないエッセイの引用を含む)、春樹さんが少年時代に過ごした環境についてかなり詳細に調べてあります*1


(一般住宅地のため画像を加工しています)


実家はずっと芦屋市にあったが、九五年一月の阪神大震災でほとんど居住不可能になって、両親はそのあとすぐ京都に越した。(辺境・近境)

ここは実際に来てみて、特に感慨深かった場所ですね。

「ここで春樹さんはビーチ・ボーイズを聴いていたんですね?」
「はい。アート・ブレイキー神戸公演もこの家で楽しみにしていたんですよね」
「世界文学全集もここで読んでいた」
・・・お住まいの方々の迷惑にならないように小声で語り合いました。

三人でじっくりと、普通の住宅街ながらファンにとっては特別なこの場所に佇んだ後、Yさんは、最後にゆっくりとこの場所を一往復していました。私は自宅からこの場所に30分ちょっとでまた来ることができるけど、もし離れた場所に住んでいたら同じことをしただろうな。


この住宅地の角から海の方向を見ると「高層住宅の群れ」が見えます。中学時代の春樹少年は、この道を通ってかつてあった海水浴場に通っていたのかもしれません。


この次には、中高生時代の春樹さんが通っていた図書館に向かいます。おそらく春樹さんは自転車で行ってたのでしょうが、我々は20分くらいかけて歩きました。


(8) 15:50 芦屋市立図書館打出分室


芦屋打出図書館が存亡の危機にある*2んですね。それは残念なことです。僕も昔よく利用しました。前の公園に猿の檻があって、そのことはたしか『風の歌を聴け』という小説にちょっと書きました。もう猿はいないと思うけど、図書館は存続してほしいものです。反対運動、出て当然でしょうね。(少年カフカ)


もともとこの建物は明治期の古い銀行の建物が移築されたもので、実業家の美術品収納庫になったいたのを1952年に芦屋市が買い取って図書館にしたという経緯があります。春樹さんとのゆかりを別にしても非常に趣がある建物です。

図書館の中にも入りました。春樹さんが中学時代に読んていたカフカの「城」は見つけられませんでしたが、春樹さんの「海辺のカフカ」などはありました。


この図書館のすぐ南にある公園も、春樹さんゆかりのスポットとして有名です。

(9) 16:00 打出公園 猿舎跡


そんなわけで、僕たちが景気よく公園の垣根を突き破り、つつじの植込みを踏み倒し、石柱に思い切り車をぶっつけた上に怪我ひとつ無かったというのは、まさに僥倖というより他なかった。 僕がショックから醒め、壊れたドアを蹴とばして外に出ると、フィアットのボンネット・カバーは10メートルばかり先の猿の檻の前にまで吹き飛び、車の鼻先はちょうど石柱の形にへこんで、突然眠りから叩き起こされた猿たちはひどく腹を立てていた。(風の歌を聴け)


猿は2003年に死に、今は檻と看板だけが残っています。


猿について書かれたもうひとつの看板は残念ながら色あせていますので・・・


2015年に撮った写真を。持っている本が「海辺のカフカ」なのですが、そこは「風の歌に聴け」だろうと突っ込む私たち。でもこういった説明があるのはありがたいことです。色あせの修復を望みます。

我々はここまでずっと歩き詰めだったのでベンチで休憩。ここで同行のAさんからもらったチョコレートが疲労回復に効きました。


おだやかな光に満たされた公園。椅子がカニなのは「さるかに合戦」だから?

そこから少し歩いて、春樹さんの通った中学校へ。


(10) 16:20 芦屋市立精道中学校


中学校のときには先生によく殴られた。小学校のときに先生に殴られた記憶はないし、高校のときに殴られた覚えもない。でもどういうわけか、中学校のときにはしょっちゅう殴られていた。(中略)考えてみれば、そこで教師たちに日常的に殴られたことによって、僕の人生はけっこう大きく変化させられてしまったような気がする。僕はそれ以来、教師や学校に対して親しみよりはむしろ、恐怖や嫌悪感の方を強く抱くようになった。(村上朝日堂はいかにして鍛えられたか)

春樹さんが通った当時とかなり変わっている感じだし、あまりいい思い出がなさそうなので、ここは写真を撮るくらいにとどめて、春樹さんが卒業した小学校へ。

この先、西宮市に入ります。


(11) 16:30 西宮市立香櫨園小学校



僕が小学生のころ、兵庫県西宮市立香炉園小学校では秋になると、給食にときどき「まつたけうどん」がでました。もちろん本物のまつたけ(けっこう大きい)が入っていて、だしには香ばしい松茸の香りがしました。うちの奥さん(東京小石川出身)にその話をすると「嘘だよ、そんなの」と言うけど、ほんとなんです。(夢のサーフシティ)

ここも当時からはかなり変わってる感じですね。ただ、私自身はここに来ると思い出すラジオ番組があります。

春樹さんと小学校の卒業文集を制作された方のコメント@さくらFM

西宮のローカルFM局さくらFMの2013年4月1日放送分「西宮文学案内 西宮と村上春樹」です。この回ではなんと、ここ香櫨園小学校で春樹さんと一緒に卒業文集をつくったという女性が当時の春樹さんことを語っておられたのです。まさにローカルならではの内容です。

「偏食がきつくて・・・でもおうどんが好きで、給食にうどんが出る日は朝から元気になる、そういう少年でした」
「言っていいのかな・・・運動は苦手でしたし、スター的な存在でもなかったけど、とっても育ちのよい、愛すべき少年」

そしてこの番組では、その卒業文集の巻頭の言葉が村上春樹さんによるものだということも明かされます。結びの言葉だけがこの番組で朗読されましたが、それは、六年生みんなの文章の集まりを「ひと房のぶどう」にたとえ、「まだ青いぶどうもあるかもしれません。けれども、青くてもしぶくても、伸びゆく命のこもったぶどうです。」という、普通じゃない見事な比喩を用いたものでした。栴檀は双葉より芳しとはまさにこのことですね。この女性は当時もこの表現に感銘を受け、春樹少年の了解を得て、ご自分が担当された文集の結びのことばにも「ひと房のぶどう」を使わせてもらったそうです。

これ、この場所で起こった出来事なんだなあ・・・と思いながら小学校の校舎を眺めていました。


ここから春樹さんが小学校時代に住んでいたすまいに向かうのですが、途中、春樹さんのお父様が勤務されていた甲陽学院中学校の前を通ります。

春樹さんのお父様が勤務されていた甲陽学院中学校


そしてこの前の道を東側に進むと、そこが「ランゲルハンス島の午後」に登場する橋です。


(12) 16:45 葭原橋(「ランゲルハンス島の午後」の橋)

僕の家と学校のあいだには、川が一本流れている。それほど深くない、水の綺麗な川で、そこに趣のある古い石の橋がかかっている。バイクも通れないような狭い橋である。まわりは公園になっていて、キョウチクトウが目かくしのように並んで茂っている。橋のまん中に立ち、手すりにもたれて南の方に目をこらすと、海がきらきらと光を反射させているのが見える。(ランゲルハンス島の午後)

ここも、春樹さん云々がなかったとしてもなかなか味わい深い橋です。

ところで、この橋のかかっている夙川とその脇にある「夙川オアシスロード」は、かつて自動車道路だったところを地域住民の運動により歩行者専用道路に変え、石油コンビナート建設計画も白紙撤回し環境を守ったという経緯のある場所です。そういった運動がちょうど春樹さんの少年時代と重なっているので、参考に関連メモへのリンク先を載せておきます。


ここから100mもない場所に、春樹さんの小学校時代のすまいがあった場所があります。こちらも住宅地ですので、写真は加工します。


16:50 小学校時代のすまい(西宮市川添町)


当時、この写真の左側にあるマンションが建っていた場所に戸建て住宅が複数あったのですが、そのうちのひとつが村上さんの家だったようです。

僕は物心ついてから高校を出るまでに二回しか引越しをしなかった。不満である。もっとたくさん引越しをしたかった。それに二回引越したといっても、直線距離にして一キロほどの地域を行ったり来たりしていただけである。こんなのって引越しとも言えない。兵庫県西宮市の夙川の西側から東側へ、そして次に芦屋市芦屋川の東側へと移っただけのことである。(村上朝日堂)

エッセイ「猫を棄てる」には、春樹さんがお父さんと一緒に家から海辺に猫を棄てにいったが、帰宅すると棄てたはずの猫が戻っていたということが書かれていますが、まさにその場所がここです。

なので、ここから実際に海辺に向かってみることに。


(13) 17:00 西宮回生病院


いったん夙川まで戻ると目に入るのが、海辺にあるこの西宮回生病院。実はここ、村上作品でも複数回登場している重要なスポットです。「火垂るの墓」にも登場します。

とにかくその年の夏、僕は十七歳で、友だちと二人でその海岸沿いの古い病院に行った。 彼のガールフレンドがそこに入院して胸の手術をしたので、見舞いに行ったのだ。(中略)我々は病院の門をくぐる前に海岸べりにバイクをとめ、そのあたりの木かげに寝転んで一息ついた。 海はその頃(ころ)には既に汚れていたし、夏も終りに近かったので泳いでいる人の数は少かった。(中略)僕は二人が話しているあいだ窓の外に並べて植えられたキョウチクトウを眺めていた。 それはとても大きなキョウチクトウで、まるでちょっとした林のように見える。(めくらやなぎと眠る女)

100年以上の歴史があるこの病院、もともとは非常に趣のあるクラシックな西洋建築でしたが、台風や震災等でどんどん建て替えが進み、玄関だけが最後まで残った状態でした。が、それも2015年に取り壊しになっています。春樹さんの少年時代にはこの玄関は残っていました。

この病院の南東側の向かいが、春樹さんがよく泳ぎに行き、猫を棄てた海辺です。


(14) 17:05「猫を棄てる」の海岸(御前浜)



とても静かなうえ、すぐ向こう側に陸地があるので川のように見えますが、海です。前方の陸地は埋立地。春樹さんの少年時代にはありませんでした。

当時はまだ海は埋め立てられてはおらず、香枦園の浜は賑やかな海水浴場になっていた。海はきれいで、夏休みにはほとんど毎日のように、僕は友だちと一緒にその浜に泳ぎに行った。子供たちが勝手に海に泳ぎに行くことを、当時の親たちはほとんど気にもしなかったようだ。だから僕らは自然に、いくらでも泳げるようになった。夙川にはたくさんの魚がいた。河口で立派な鰻を一匹捕まえたこともある。(猫を棄てる)


西側の向こうには芦屋の家のあたりから見えた「高層住宅の群れ」が別の角度から見えます。余談ですが、この芦屋シーサイドタウンは、2001年のテロで破壊されたニューヨークの世界貿易センタービルと同じ、ミノル・ヤマサキの設計によるものです。

ここまでで歩き通して、通算2万歩。よく歩いた。



浜辺から10分ちょっと歩いて阪神香櫨園駅へ。ここから神戸三宮に戻り、春樹さんが行ったお店でピザとビール!

阪神三宮駅からだと山手のほうに10分ちょっとの場所にそのお店はありました。

(15) 18:20 ピノッキオ(ピザ)

ようやく三宮の街に戻り着く。(中略)散歩がてら山の手の小さなレストランまで歩く。ひとりでカウンターに座ってシーフード・ピザを注文し、生ビールを飲む。一人の客は僕しかいない。気のせいかもしれないが、その店に入っている僕以外の人々はみんなとても幸福そうに見える。恋人たちはいかにも仲が良さそうだし、グループでやってきた男女は大きな声で楽しそうに笑っている。たまにそういう日がある。運ばれてきたシーフード・ピザには「あなたの召し上がるピザは、当店の958,816枚目のピザです」という小さな紙片がついている。その数字の意味がしばらくのあいだうまく呑み込めない。958,816?僕はそこにいったいどのようなメッセージを読みとるべきなのだろう?そういえばガールフレンドと何度かこの店に来て、同じように冷たいビールを飲み、番号のついた焼きたてのピザを食べた。僕らは将来についていろんなことを話した。そこで口にされたすべての予測は、どれもこれも見事に外れてしまったけれど。(辺境・近境)

喜び勇んでお店に入ろうとすると・・・18時過ぎですがすでに満席。予約をしていなかったのでした。

しまった・・・とうろたえていると、マスター自らが店の外に出てきてくれて、姉妹店「ジェペット」に電話をし、そちらに空き席があることを確認してくれました。有名店なのに(だから、か)なんと親切な。

マスターのお話によると、春樹さんが「辺境・近境」で90年代に来たのも学生時代に来ていたのも入れなかったピノッキオのほう、とのこと。山下達郎さんもライブの打ち上げで来られることがあるらしい。そんなお話を伺う間にジェペットの席の用意ができたとの知らせが入ります。


ピノッキオからは1分もかからないところにある地下のお店がジェペット。こちらはマスターの息子さんが取り仕切っておられます。

「手始めに何をする?」「ビールを飲もう。(風の歌を聴け)



シーフードピザはもちろん、他の種類のピザもお願いし、ワインも三人で一本空けました。幸せ。シーフードピザは具の味がはっきりしていてかつ独特の甘みがあり、自分史上最高のシーフードピザでした。



1,433,179枚目なので、春樹さんが90年代に食べてから54万枚くらいのピザが出されているということですね。


食事やお酒がおいしかっただけでなく、お店の人もみなさんよく気がつく方ばかりで、お酒が好きなのにそれほど強くない私にはまめに水を注いでくださったりで、すっかりこのお店のファンになりました。

で、気がつくともう20時半。

新神戸駅の東京方面終電が21:00(2022年11月現在)なので、東京から日帰りだとここで新神戸駅に向かわなくてはなりません。

が、今回東京から来た二人はばっちり宿をとってくれているので、次の最終スポットに向かいます。

今回の旅で唯一春樹さんに直接は関係のない場所。映画「風の歌を聴け」でジェイズ・バーのロケ地として使用された「HALF TIME」です。


(16)21:00 HALF TIME(バー)


山側ですがピノッキオよりは三宮駅に近いビルの2階にあります。


入るなり映画のポスターが。公開が1979年ですから43年前。ずっとここにあるわけですね。蓄積された時間の重みを感じます。


映画撮影当時とほとんど変わっていない印象です。しっかりピンボールマシンもあります(「ジュラシックパーク」だから当時とはもちろん別のマシンなんですが)。


テーブルもありますが我々3人はカウンターへ。

客は、東南アジア系の青年が一人いるだけで静か。アニメ「デビルマン」主題歌のジャズバージョンが流れています。

こちらもマスターが親しみやすく、いろんな話をしてくださいました。

この店に坂田明(ジェイ役)が来られたがとても静かな方だったこと。映画で床に敷き詰めたピーナッツの殻が原因で南京虫がわき、真行寺君枝さんが刺され、腕にあとがついてしまったこと。大森一樹監督がマスターに村上春樹の小説を映画化すると話したとき、マスターが「あのアーバンな乾いた文体を日本人の役者がしゃべって成り立つのか」とするどい指摘をされたこと。

43年前の映画のロケ地で、映画の撮影にかかわった方から直接お話を伺う。なんて貴重な瞬間。



貴重といえば、マスターはこんな本を見せてくださいました。プレイガイドジャーナルで売られていた「ジェイズ・バーのメモワール」。映画撮影時のさまざまなシーンが掲載されています。現在は絶版です。



巻末のリストを見るとロケ地がわかりますね。



他には、韓国のファンが置いていった村上春樹ゆかりの地観光ガイド。非常によく調べてあり、中には知らないスポットも。三人で「ハングルが読みたい!」。マスターは、掲載されている写真の彩度が低いのがおもしろいとおっしゃっていました。たしかに。日本のガイドブックとはかなり違った色味です。


マスターはこんなふうにいろんなお話をしてくださるのですが、それが私たち三人の間の会話の合間の絶妙なタイミングに話しかけてくださるんですよね。それも落ち着いたやさしい口調で。このお店もピノッキオ同様ファンになりました。

なお、お店の写真をネットに上げるのもOKとのこと。


最後は、Aさんのアイデアで、今のところの春樹さんの最新小説「一人称単数」にちなんでウォッカ・ギムレットを三人そろってオーダー。

「ギムレットじゃなくて、ウォッカ・ギムレット」(一人称単数)

ところが、マスターは出すや否や「あ、すみません、ウオッカマティーニを出してしまいました」

三人で爆笑。もちろん三人はウォッカ・マティーニをいただき、この長い散策を締めくくりました。



このあとはJR三ノ宮駅に向かい、22時半過ぎに解散。約11時間、3万歩の長い散策でした。

阪神間に住む私にとって、村上春樹さんの少年時代の足跡を熱心なファンと巡り、春樹さんの作品について語りつつ自分の住む街を紹介するというのはひとつの夢でした。それを最高のかたちでかなえさせてくれて、同行してくれたYさんAさん、ゆかりの地を守ってきた方々に心から感謝です。


一緒に散策したAさんがまとめた動画



関連メモ

2002~3年に「辺境・近境」登場スポットを歩いた記録。



村上春樹さん関連のメモへのリンク集



注釈

*1:「五月の海岸線」に登場する「六歳の少年の死体」をもとに1954年7月の神戸新聞を調べ、春樹さんの住まいの近くで実際に6歳の男の子が溺死した事件があったことまで書かれています。

*2:この建物は2008年に「国の登録有形文化財」に登録されたこともあり、もう「存亡の危機」にはないようです。


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