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健康なときに病の絶望を実感できる小説 -トルストイ「イワン・イリイチの死」

二日酔いで目覚めたときは、「この苦しみがわかっていたはずなのに、またしてもあんな飲み方をしてしまった」と自分にあきれ果てて、ただでさえつらい朝がさらにつらくなります。

この経験があるから、「このへんでウーロン茶を頼んでおこう」とか「今日はこのくらいにしておかないと」とささやかな節酒ができるのです。たまに、ですが。

似たような感じで、死に至る病を抱えることの絶望を実感でき、健康に想いを馳せ日々を大切に生きようと思えるような小説を見つけました。この「イワン・イリイチの死」です。

それほどまでに、この作品では死が近づいてくる人間の心理を活写しています。度が過ぎるほど率直に。

以下、ストーリーそのものはかなりネタバレします(ラストまでは明かしません)。この小説の凄みはその程度では損なわれないと私は思っていますが、ネタバレを避けたい方はお気をつけください。





葬儀

19世紀後半のロシア。判事イワン・イリイチが45歳で亡くなります。この小説は彼の葬儀から始まります。

イワン・イリイチの死の知らせを聞いたとき、このオフィスに集まっていた 紳士一人ひとりの頭にまず浮かんだのは、この人物の死が自分自身もしくは知人たちの異動や昇進にどんな意味を持つかということであった。

身近な知人の死という事実そのものが、それ を知ったすべての人の心に、例の喜びの感情をもたらしたのだった。死んだのが他の者であって自分ではなかったという喜びを。 「いやはやあの人もご臨終か。でも俺はこうして生きているぞ」銘々そんなふうに考 えたり感じたりしていたのである。

冒頭からこのような遠慮会釈のない描写が続きます。判事という、高度な知識を要する専門職として活躍した彼の死も、同僚にとってはその程度。

かといって、この同僚がひどい人たちかというと、そうでもないと思うのです。他人にとって自分はその程度の存在。そのことを率直に示してる。

このことは頭の中ではわかっていてもすぐに忘れてしまう。でもこの小説はのっけからそのことを思い出させてくれます。


同僚の一人は、葬儀に参列したときこう考えています。

ピョートル・イワーノヴィチはその部屋に入っていったが、いつもそうであるように、入った先でどう振る舞うべきなのか、よくわかっていなかった。ひとつだけわか っていたのは、こういう場合十字を切っていれば決して間違いないということである。 だがその際にお辞儀をする必要があるかどうかという点になると、彼はあまり自信が なくて、それゆえ中間案をとることにした。つまり部屋に入りながら十字を切りはじめると同時に、ちょっとお辞儀めいた動作を付け加えたのである。

白状すると、これは私自身にとっても「葬式あるある」です。20代の頃はそうだったなあ。

100年以上前の異国の地の話なのに「あるある」が出てくるし、冒頭から真実を突きつけてくる。ここで私はこの小説にはまり込んでいきました。


順調だった人生

葬儀の後、イワン・イリイチの生い立ちが語られます。

彼は子どもの頃から「一家の誇り」として将来を嘱望される「賢く覇気があって好感の持てる、品の良い人間」でした。

大人になると法律家として「勤務に励んで出世の階段を上ると同時に、楽しい遊びごとのほうも十分に味わ」う日々を過ごしました。仕事に遊びに充実した人生です。

判事として活躍していた彼の心境がこう綴られています。

かつての職場で気分がよかったのは、シャルメルの店で仕立てた燕尾服姿で、今か今かと面会を待ち構えている請願者たちや、こちらにうらやみの目を向けてくる役人たちの傍らを通り抜けて、ずかずかと上官の執務室に入っていき、座り込んで茶とタバコを一服することであった。(中略)
彼はそのような自分の意のままになる人間たちに対して、丁重な、ほとんど仲間同士のような態度をとってみせることを好んだ。おまえたちの生殺与奪の権を握っているこの私が、まるで友達のようにざっくばらんな態度をとってやるんだぞと、相手に感じさせるのが好きだったのだ。

若くして力をもった人の心理はきっとこういうものなのだろうなと思います。私も、中高生の時の部活動で先輩の立場になったときには似たような感覚をもったことがありますが、それが部活動どころではなく実際に「生殺与奪の権」をもっている人にでもなれば相当なものでしょう。

その後、イワン・イリイチは結婚し子どもが生まれた頃からすきま風が吹くようになり、仕事でも人事異動で後回しにされるようなことも起こりますが、おおまかにいって順調で安定し、楽しみもある人生を歩んでいきます。

ある日「腹部の右側に違和感」を感じるまでは。


身体の違和感、困惑、怒り、絶望、そして・・・

最初は、「これは病気と名づけるほどのものではなかった。」

「だがある時からこの違和感が強くなりだして、まだ痛むというわけではないが、常にわき腹が重苦しく、気分が悪いという状態になった。」

ここからの心理描写は、この小説の真骨頂です。

彼は困惑し、医学書を読み、いろいろな医者の診断を受けます。しかし、どの医者も通りいっぺんのあいまいな診断。出す薬は医者によって変わる。困惑は増すばかりです。

あるとき、久しぶりに会った義弟はこう反応します。

足音に眼を上げた義弟は、そのまましばし口もきけずに、釘付けになったように彼を見つめていた。このまなざしが、イワン・イリイチにすべてを物語った。義弟は口 を開いて「あっ」と言いかけたまま、声を押し殺した。その動きがすべてを裏付けていた。

症状の悪化がこのようにいやおうなく告げられます。彼は怒ります。

死ぬんだ。そうだ、死ぬんだ。なのにやつらは誰一人知らないし、知ろうともしない 。知るのがいやなんだ。そして音楽なんかやっていやがる(その時、遠くのドア越しに、転がるようなソプラノとリトルネロの曲が響いてきたのだった)。やつらは平気な顔をしているが、やつらだって同じように死ぬんだ。愚か者どもめが。私が先でやつらが後、だがやつらもいつか同じ目にあう。それをのんきに喜んでいやがる。畜生どもが!」

ときには、怒りや絶望に身を任せるのでなく、他のことも考えてみようとします。

あるときは彼はこう自分に語りかけた。「勤めに専念しよう。私は勤めで生きてきたのだから」そうして彼は、あらゆる疑念を追い払って法廷に出かけていった。(中略)
しかしそうした仕事のさなか、突然わき腹に痛みが走り、審理の進展具合など何のお構いもなしに、じりじりと貪るような例の作業を開始する。イワン・イリイチは じっと耳をすまし、痛みについての思いを振り払おうとするが、痛みは自己主張をやめない。

しかし病は彼をとらえて離しません。

この病のきっかけを思い、ぼう然としたりもします(きっかけを考えると、これは一種のけがかもしれないのですが)。


そして、周りの人たちの空虚な励ましや楽観的な見方に、彼は極度に敏感になります。信頼し心を許し、不快に思わないのは率直で忠実な下男ゲラ-シムだけなのです。

(死が近づく状態において、何が不快な嘘になり、どんな行動が安息につながるのか。これもこの小説から学んだ大きな内容です。)


イワン・イリイチはこのような困惑、怒り、絶望の末、どのように死を迎えるのか・・・

これは、上記のような部分引用ではお伝えできない、まさに小説でしか表現できないような内容でもありますし、最後の最後までネタバレしきることへの躊躇もありますので、引用は控えておきます。ぜひ本作をお読みいただければと思います。


よしてるの感想

座右の書になりそうです。

定期的にこの小説を読むことで死に触れ、日々の戒めにするために。

そして私もいつか思うでしょう。

「・・・あの頃は、気楽に『健康なときに病の絶望を実感できる小説がある』などとブログに書いていた。小説をまるでライフハックのツールみたいに扱って。そして実際に死の可能性に日々近づいている人々の気持ちも知らずに。

でも今、イワン・イリイチの本当の気持ちがわかった。その時になってみないとわからないものだ。小説で死に触れるなんて、浅はかなことをしていたものだ・・・」と。

そう思い始めるのは何年後なんだろう。今日かもしれない。



関連メモ

19世紀末のロシアの小説、といえばこれ。すべてが詰まった「小説界のラスボス」。


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