庭を歩いてメモをとる

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聖徳太子はなぜ天皇になれなかったのか・蘇我氏はなぜ急に台頭したのか

以前から気になっていた問いへの興味深い考察があったのでメモします。

厩戸皇子(聖徳太子)はなぜ即位できなかったか

あれだけの実績(伝説の類も多いのでしょうが)を残し皇位継承も可能だった厩戸皇子が、なぜ推古天皇を補佐する立場で一生を終わったのか。これは以前からの疑問でした。

「日出処の天子」での説

山岸涼子さんの「日出処の天子」(個人的に、今まで読んだ漫画の中でも特に愛好する作品です)では、蘇我氏等強大化した豪族の力を押さえ込むため、「摂政厩戸皇子+推古天皇」のスタイルで皇族の発言権を強化した、との説でした。つまり厩戸皇子は「名ではなく実をと」り、「大王が二人」の状態を作るため、あえて皇位に就かなかった、との考えです。

これはこれで納得できるのですが、研究者の方はどうお考えなのでしょうか。本書での考察は次の通りです。

本書の説

  • 推古天皇より7年早く亡くなったからだろうか?しかし、その数十年後、皇極天皇は自らが亡くなる前に孝徳天皇に皇位を譲っている。推古天皇が厩戸皇子に王位を譲ることもできたのではなかったか。
  • とすると、推古は自分の意思で厩戸皇子に王位を譲らなかったのではないか。
  • 推古は当初、崇峻天皇暗殺という非常事態によって即位した「中継ぎ」で、その後は実子竹田王子に王位を譲るつもりだったが、竹田が夭折してしまった。その後竹田のことが忘れられず結局厩戸に王位を譲る気になれなかったのではないか。
  • 「推古・厩戸ライン」の政権運営が次第に安定化した結果、本格的な大王として長期の在位が可能になった面もある。

調べてみると、推古天皇は39歳で即位しその後35年間も在位します。これは当時としてはかなりの長期・長寿です。本人も周囲も、ここまで長生きするとは思っていなかったのでしょう。このことを考えると、本書の考察はかなり納得度が高いように思えます。

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蘇我氏はどのようにして台頭したか

もうひとつのこの疑問についても、本書では歴史研究者らしい様々な資料・史実からの考察が行われています。

  • 蘇我稲目が歴史上突然出てくるのはなぜか?継体天皇を支持したからではないか(継体天皇はそれまでの天皇とはかなり離れた血筋の人物で、西暦507年の即位後大和国の都に入るのに19年かかっている・・・つまり即位に賛否両論あったこと、そして実在と系譜が明らかな最初の天皇としても知られています。)。
  • その継体天皇が大和定着の際住んだのが「磐余玉穂宮」(奈良県桜井市)。これは大伴氏の勢力範囲。そして継体天皇に続く安閑天皇・宣化天皇の住まい「匂金橋宮」(奈良県橿原市)「檜隈鷹入野宮」(奈良県明日香村)は蘇我氏の勢力範囲。この2氏が継体天皇の大和定着に大きな役割を果たした功績を認められたのではないか。

蘇我稲目の、継体天皇支持という判断が功を奏したわけですね。相当優秀な人物だったのでしょう。また、蘇我氏の勢力拡大には、渡来人の活用が巧みという背景があったようです。古代日本が国家として成立していく過程で、先進の大陸文明・技術を有した渡来人の役割は大きかったでしょうから、それに比例して蘇我氏の力も伸長していったのでしょう。本書では、蘇我氏の力を示す以下のエピソードが紹介されています。

  • 冠位十二階は蘇我馬子には授与されていない。これは厩戸皇子と馬子が実質的な冠位授与者だったことを示している。
  • 馬子は、推古天皇にお願い事をするときも本人が訪問せず使いをやっている。しかもその使いは有力な豪族阿倍氏だった。

このような突出した力が大化の改新につながっていくことになったのでしょう。

参考:継体天皇がなぜ天皇になれたのかについてのメモ




本書は、様々な資料を元に(古い資料の引用にすべて現代日本語訳がついているところが助かりました)丁寧な考察がぎっしりつまっていて、新書とは思えないクオリティの高さでした。また、他の研究者の考察や異説にも礼儀正しく接している水谷さんの姿勢にも好感が持てました。

エピローグも、直接研究とは関係ありませんが、素晴らしいものでした。水谷さんが、蘇我馬子の邸宅があったと言われる奈良明日香・甘樫岡の遺跡を見た後、通りがかった農夫のラジオから、この日に予定されていた皇室の慶事が滞りなく行われたことを耳にされました。もし大化の改新が成功していなかったらこのニュースは・・・現代から古代に思いを馳せる情緒あふれる感慨深い文章でした。水谷さんの他の本も読んでみたくなりました。



関連メモ

古代日本


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