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明治時代、沖縄が日本に組み込まれるに至った経緯

(2023年8月5日更新)

沖縄の社会問題、たとえば基地問題などを考えるにあたって、そもそも、

  • 沖縄はもともと日本とは別の国だったのか
  • もしそうなら、どういう経緯で日本に組み込まれたのか
  • 以上について、当時の沖縄(琉球王府)はどう考えていたのか

ということを知っておいたほうがいいような気がしたので、調べてみました。


沖縄は別の国だった?

まずは、沖縄は日本とは別の国だったのかどうか。

沖縄県のサイトには、はっきりこう書かれています。
「昔、沖縄県は、琉球(りゅうきゅう)とよばれた一つの国でした。」*1

少なくとも沖縄県は、公式に、かつての沖縄(琉球)は、日本とは別の国だったと認識しているのですね。

では、どんな経緯で沖縄(琉球)は、沖縄県として日本の一部に組み込まれたのでしょうか。


江戸時代まで

14世紀半ばごろ

琉球で農耕が始まったのは12世紀ごろでした*2

その後200年ほどして、沖縄本島に3つの小国家が形成され、各国は中国・明王朝の冊封国となります。

つまり、明皇帝の臣下となり土地の産物を献上する代わりに、琉球の統治権を認めてもらっていたわけです。

なので、日本でいう室町~安土桃山時代くらいまでは、日本よりも明と強いつながりのある国だったと思われます。

座喜味城跡。1416~22年築。(1994年、よしてる撮影)

1429年

この年、尚巴志(しょうはし)により統一国家・琉球王国が成立します。

巴志の子、泰久(たいきゅう)は海外貿易に力を注ぎ,日本・中国・朝鮮・東南アジアを交易圏とした中継貿易基地の地位を確立させます*3

また、室町時代、1466年には、琉球国王の来朝使者である芥隠承琥(かいいんしょうこ。京都南禅寺出身の僧で、沖縄に渡り尚氏に仕えた*4)が足利義政に謁見しています。そんなかたちで日本との交流がありました。

1609年

ここで薩摩藩が琉球王国に侵攻、実質的な支配下におきました。

ただ、薩摩藩の支配方針は次の通りでした。

  • 中国暦を引き続き使用させる
  • 中国への朝貢も継続させる
  • 琉球人の和風俗への同化を禁じる

つまり、琉球王国は、薩摩侵攻後も中国の支配下にもあり、日本とは区別された存在として継続したのです。

そして薩摩藩はこの方針により、日本が鎖国下であったにもかかわらず、琉球を経由した中国貿易で利潤を得ることができました。

なお、琉球王府の正史『中山世鑑』に記される舜天(しゅんてん)王は、源為朝(みなもとのためとも)の子であるという伝説があります。

これはたんなる伝説にすぎませんが、その背景には、17世紀初頭に島津氏(しまづし)によって侵攻された琉球が、島津氏に従属する理由づけを必要としているということがありました。つまり、琉球を徳川政権下の幕藩体制に造作なく組み込ませるために、琉球の国王が徳川や島津と同系統である源氏の血を引いているとする「日琉同祖論」に利用したのです。

引用元:沖縄県立総合教育センター「為朝伝説」


薩摩藩と中国の両方に属しながら、独立していた琉球王国。

沖縄県として日本に組み込まれるのはいつ、どうしてなのか。

これ以降の経緯は、小熊英二「<日本人>の境界」(1998年)をもとにまとめます。
(2023年8月5日追記)本書は、膨大な資料をもとに国・組織・ときには一個人の歴史や変遷を整理した力作で、よしてるは大変興味深く読み学ぶところも非常に多かったのですが、琉球処分においては反対派の言説のみを取り上げ賛成派の存在がわかりにくい等の問題もあります。この点は「通りすがり」さんのご指摘で知ることができました。ご指摘ありがとうございました。
「日本人」の境界―沖縄・アイヌ・台湾・朝鮮 植民地支配から復帰運動まで


明治維新当時の日本国内の議論

1868年。明治維新の年です。

この年、明治政府は、琉球に明治改元に関する太政官令を伝えました。

要は、琉球王府へ琉球統合の意思表示をしたわけです。「日本は、琉球を日本の一部だと思っているので、改元のことも伝えたよ」と。

ところで、この時点での琉球統合について、日本国内の世論・政府の考えはどうだったのでしょうか。

沖縄編入反対論

実は、沖縄を日本に組み入れるのは反対だという意見もかなりありました。

理由1:コストが合わない
  • 明治政府はできたばかりで金がない
  • 士族も反乱を起こしている中、沖縄どころではない
  • 沖縄が両属している清とももめる
  • 沖縄は領土としては小さい
  • 沖縄に軍、警察、教師などを送り込むのにもコストがかかる

以上、内務省沖縄藩官僚・河原田盛美や郵便報知新聞等が述べていた意見です。

理由2:差別意識
  • 「琉球国王は乃ち琉球の人類にして国内の人類と同一には混淆すへからず」(左院[当時の立法府])
  • 琉球人は日本人ではない(大隈重信、木戸孝允)

コストと差別意識が理由で、沖縄編入に反対していた人たちがいたのです。

もちろん、逆の立場の人々もいました。

沖縄編入推進論

理由:欧米に対する国防(井上馨、山縣有朋)

  • 日本は列強に比べ軍事力に劣るので、できるだけ本国から遠方に国境線を引きたい

「本土」防衛のために沖縄を編入したいという考えです。

当初は折衷案に

ただ、このころは、まだ「反対」「推進」の決着がついていなかったようで、日本政府の対応も両方の折衷案のようなものになっています。

1871年には本土で廃藩置県が実施されます。しかし、鹿児島藩は琉球を王国のまま鹿児島県の管轄地にしているのです。

で、翌1872年には、琉球王府を維持したまま琉球藩を設置しています。尚泰王は日本の華族に列せられました。

しかし、このようなどっちつかずの状況を変える出来事が起こります。琉球漂流民殺害事件です。


沖縄を日本に組み入れる方向が加速

琉球漂流民殺害事件(牡丹社事件)

  • 1871年 台湾へ漂着した宮古島民54名が、言葉が通じなかったことなどを発端に、台湾の先住民族パイワン族に殺害される
  • 1873年 日清交渉の場で、双方が「琉球民は自国民」と主張
  • 1874年 日本、報復として台湾に出兵(日本最初の海外派兵)。パイワン族30名戦死。
  • 出兵後の日清交渉にて、日本は賠償金(戦費の10分の1)と、互換条款中に琉球人を「日本国属民」とする一節を挿入

※ この事件については、2005年、日本と台湾の間で和解イベントが行われました*5


偶然、宮古島民が台湾に流れ着き殺害されてしまいました。

これに対し、日本政府はどうしたか。

まず琉球人が日本に属するか属さないかをはっきりさせないと、清と交渉できません

それまで、「沖縄を日本に編入したくない派(反対派)」は、上記の理由のほかに、「東アジアは、皇帝の国(中国や日本)が王国(この場合琉球)を従えるという国際秩序があり、欧米列強もそれはわかってくれるだろう」という考えもあったらしいのです。

しかし、この「東アジアの国際秩序」は欧米列強にどんどん破壊されていきます。清(中国)も西洋にどんどんいいようにされているし、日本もやばいんじゃないか、と。

次第に「沖縄を日本に編入して、できるだけ本国から遠方に国境線を引きたい派(推進派)」が力を集めるようになります。

それで、日本は台湾に出兵、清に交渉し「琉球人は日本に属する」と文書で認めさせたのです。

日本政府と琉球王府の交渉

その後は、琉球を「日本にする」動きが本格化します。

内務大丞・松田道之が琉球処分(琉球を日本に組み入れること)の処分官に任命されます。

松田と琉球王府の交渉は、当初は次のような内容でした。

松田処分官
  • 交通・戦略上の要衝である琉球はこのままだと外国に奪取される
  • 人種・地理・言語(名詞と動詞の語順など)・歴史などあらゆる面から琉球と日本は似ている
  • 琉球は古代から天皇に帰服している

以前は、琉球と日本は別だという説もありましたが、ここでは「もともと琉球は日本に似ている」という説明になっています。

対する琉球王府はどうか。

琉球王府
  • 日本と清の中間にあたり、人種風俗も「御両国に似寄」っている
  • 琉球のような小国に軍隊を置いてもかえって国際摩擦を起こすだけ
  • よって日清両属が自然な状態
  • (その他、明治政府にも請願、清に支援を要請、東京のヨーロッパ各国の行使にも密使を送る)

琉球王府は、このまま「日清両属」の状態にしてほしい、とはっきり言っています。しかも外国への訴えかけまで行っている。


(参考)2022年5月14日に行われた「尚家と祝う沖縄県祖国復帰50周年」イベントでは、琉球処分時の琉球国王・尚泰について、子孫の尚衞(まもる)氏が「琉球が存続していくには日本に帰属するのが正しい道だとご決断された」と述べておられたそうです*6


当時の「琉球人」感

ところで、日本人と琉球人は同じ民族なのかどうか、当時の他国はどう見ていたのでしょうか。

  • 清:日本人と琉球人の「二種」は別民族と主張
  • アメリカ(ペリー):沖縄住民は「日本人」とは異なるとの見解

別民族だとみなしていました。

ちなみに、当時日本政府も、顧問(おそらく外国人)に、調査書「琉球の国語宗教種族慣習」の作成を命じます。日本と琉球が同じ民族である証拠を集めたかったのだと思われますが、人種・言語・風俗・宗教など各項目ごとに学問的立場から回答した結果、日本と琉球の類似性はほとんどすべてにおいて否定されたそうです。

(なお、DNA分析結果がどうなのかについては後述します)


琉球処分 - 沖縄が日本に組み入れられる

日本政府は、琉球を攻撃したりはしなかったものの、強い圧力をかけて沖縄を編入した

日本政府と琉球王府の話し合いは決着がつきませんでしたが、1879年に結論が定まりました。

  • 松田は鎮台兵と警官をともなって沖縄県設置を通告、首里城の明け渡しを命じる
  • 尚泰国王は威圧に屈して城を明け渡し、琉球王国は滅亡、沖縄県として大日本帝国に編入(琉球処分)

日本政府は、琉球を攻撃したりはしなかったものの、強い圧力をかけて沖縄を編入したということですね。

以上が、沖縄が日本に組み込まれた経緯です。


ちなみに、沖縄県民にはその後もしばらく参政権がないなど、「本土」の日本人よりも権利が制限されていました*7*8


「琉球処分は一種の奴隷解放」との声もあったが・・・

(2023年7月23・27日追記。こちらの内容は、「通りすがり」さんからいただいたコメントがきっかけになっています。「通りすがり」さんに感謝申し上げます。)

ただし、「沖縄学の父」と呼ばれる沖縄出身の民俗学者伊波普猷(いはふゆう)は、「琉球処分は一種の奴隷解放」と述べていました。

琉球処分が琉球旧士族からの過酷な支配からの開放を期待させたからです。

つまり、必ずしも沖縄の人すべてが琉球処分に反対していたわけではなかったということです。

また、伊波については、琉球士族の多い首里の学校に行くため幼少期に彼だけが一家から離されたこと、那覇では13歳で元服になるはずが首里にいたために11歳で元服する羽目になったこと、那覇の家に帰ると自身の首里なまりを冷やかされるなど*9つらい経験が重なり、琉球王朝には肯定的ではなかったという背景もあります。


ただ、彼は後年、沖縄が課税負担超過で国庫に税金を奪われていることから「沖縄の政治上の束縛なる奴隷制度はどうやら廃止されたが、奴隷的境遇は新しい形式即ち経済的形式のもとに始まりつつある」とも述べています。

伊波は、琉球処分による沖縄県民の生活改善を期待していたが、後に失望した、ということなのかもしれません。


首里城(2002年、よしてる撮影)


まとめ

  • 沖縄はもともと日本とは別の国だったのか → 少なくとも、現在の沖縄県は「別の国だった」と考えている
  • もしそうなら、どういう経緯で日本に組み込まれたのか → 琉球漂流民殺害事件をきっかけに、日本政府が琉球を組み込む方向性を固め、最終的には強い圧力をかけて琉球王府を沖縄県にした
  • 以上について、琉球王府はどう考えていたのか → 日本に編入されたくないと考え、外国に密使まで送った
  • 琉球が沖縄県になったのは1879年だが、県全域に参政権が与えられたのは1920年と、約40年かかった


(参考)DNA上は?

さてここからは、冒頭の問いとは別に、沖縄の人々と日本の「本土」に住む人々と、遺伝的にどのくらい違うのかという点を確認します。

ミトコンドリアDNAハプログループ

確認できた資料では、結論として次の内容が書かれていました。

  • 「アイヌだけではなく、本土の和人も琉球の人々も同じように日本列島の先住集団である縄文人と遺伝的につながっている。したがってアイヌ、琉球、本土人は、姉妹関係にある集団と位置づけられる。」
  • そもそも「日本人は成立の歴史から見て単一の民族とは言えない」

引用元:首相官邸「アイヌ政策のあり方に関する有識者懇談会」有識者会議レジュメ 2009.2.26「自然人類学から見たアイヌ民族」国立科学博物館・人類研究部・篠田謙一

沖縄の人々と日本の「本土」に住む人々とは、遺伝的につながっているのですね。

以上は、ミトコンドリアDNAハプログループ(母系で遺伝)による分析でした。Y染色体ハプログループ(父系で遺伝)ではどうでしょうか。

Y染色体ハプログループ

  • 沖縄と本土ではグループの分布が違う
  • しかし、そもそも日本列島に住む人たちには、世界で5つあるY染色体ハプログループのうち3グループすべてが認められる珍しい地域(世界の他地域では2グループしか認められないのが普通)

(詳細については、当ブログの次のメモをご覧いただければと思います。日本列島におけるハプログループの分布についても記載しています。)

「本土」と沖縄では遺伝上の分布の違いも見られるものの、ミトコンドリアDNAハプログループの分析結果と同様「そもそも、DNA上では、日本人は成立の歴史から見て単一の民族とは言えない」ようです。


関連メモ



注釈


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