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事件と日本社会、両方の理解が深まる一冊 - リチャード・ロイド・パリー「黒い迷宮 ルーシー・ブラックマン事件15年目の真実」

ルーシー・ブラックマン事件といえば15年以上前(2000年発生)の出来事ですが、当時かなり報道されたので、被害者ルーシーさんの写真を思い出せる人は今も多いのではないでしょうか。私もそうです。しかし、事件の詳細はこの本を読むまで知りませんでしたし、英国人の著者ならではの視点、そして何よりバランスがとれた綿密な取材には感銘を受けました。


事件について新たに知ったこと

私がこの事件について知っていたのはこのくらいのことでした。

  • ルーシーさんの職業は元客室乗務員、東京ではホステス
  • 彼女の家族は英国からたびたび来日し記者会見を行なうなど精力的な活動を展開
  • その後逮捕された織原城二は過去30年にわたり女性(外国人が多い)を薬物で意識不明にした上強姦していたことが判明、無期懲役となり現在も服役中
  • 織原は在日韓国人富豪の息子で、被害者の家族に1億円の「お見舞い金」(お詫び金ではなく)を提示、被害者の父が受け取った


この本で新たに知ったことはたくさんあるのですが、抜粋すると次のとおりです(本書で初めて明かされたというわけではないので、ご存じの方も多いかもしれませんが)。

  • 織原城二に殺害された人物の中には、1992年2月に急死したオーストラリア人カリタ・リッジウェイさんもいた
    • この時も含め、警察は外国人女性の被害に対してのアクションはほとんどとらなかった
    • ルーシーさんの場合は、トニー・ブレア英国首相が来日時この事件について「あらゆる手を尽くしてほしい」と要請したことから、捜査が進展したと推測される
  • ルーシーさんの家族を支援した人々:
    • 東京在住の英国人ファイナンシャルアドバイザー、ヒュー・シェイクシャフトさんはルーシーさんの父のためにオフィスとホットラインを用意した上、あるレストランでは今後ルーシーさんの家族は何を何度食べてもすべて自分のつけになるようにした
    • ルーシーホットラインの番号を記載したチラシとポスターはヴァージンアトランティック航空が印刷代を負担
    • その他多くの外国人・日本人が支援
  • 織原は弁護士・ライターなどを雇い、自身がルーシーさん殺害に関与していないことを主張する本「ルーシー事件の真実」を出版し(どんな本なのかは、リンク先のアマゾンのレビューからも想像がつきますし、本書での説明も同じようなものでした)、サイト「ルーシー事件の真相」を立ち上げた
    • その後、織原は本の制作者たちから、制作費未払いで訴えられた
  • カリタさんの家族も織原からお見舞金1億円を受け取っていた
  • 織原はルーシーさん殺害については確たる証拠がないため無罪となった(ただしルーシーさんへの準強姦未遂、死体損壊、死体遺棄並びにカリタさんへの準強姦致死については有罪で、このため無期懲役に)

そして、ルーシさんと家族について、生い立ちや本人・知人の証言を詳細に追った記述が非常に興味深かった。特にルーシーさんの両親と妹についてはかなりの時間をとってインタビューしています。それぞれの人となりだけでなく、家族が事件以来崩壊していく中どのように踏みとどまったかが、まるで自分の親しい人におこったことのように感じられるほどです。

織原については、自身の写真や経歴がオープンになることを極力避けており、写真は数枚しかも他人と一緒に写っているものくらいしか見つかっておらず、逮捕されても写真撮影時に顔を背け(警察が無理矢理カメラのほうを向かせると拷問と捉えられる可能性があることを知っていた)、裁判でも傍聴席から顔を背けるため似顔絵が描きにくいほど。しかしそんな彼についても、父の経歴や兄弟の陰のある生い立ちをたどったり、学生時代の本人を知る人の証言を集めるなどして織原の複雑な人間像に肉迫しています。


バランスのとれたスタンス

以上のような綿密な取材に加え、著者パリー氏のきわめてバランスのとれたスタンスも見事です。意見や立場の異なるそれぞれの人のうち、誰かに思い入れを強くするわけではなく、評価もせず、しかしその心情にはしっかりと寄り添っています。

特にそれを感じたのは、考え方が全く異なるルーシーさんの父母それぞれについての記述です。二人はルーシーさん失踪前から離婚しておりもともと距離があったのですが、事件後は溝がさらに広がります。父ティムさんはいわゆる「被害者の家族らしくない」人で、涙を見せる暇があるなら記者会見したり行動する、というタイプ。我が娘の死を無駄にしないよう、イギリス国外で行方不明になった人の家族を支援する「ルーシー・ブラックマン基金」まで設立しています。母ジェーンはそれとはまったく逆。しかし、パリー氏はどちらの思いも丁寧に、しかし客観的に描写しています。ティムさんが織原から1億円を受け取ったときでさえ、ジェーンさんはもちろんのことイギリスのマスコミからも大バッシングがあったそうですが、それでもパリー氏は一方的な断罪はしていません。

また、日本をいたずらに「特殊な国」として記載することもありません。ルーシーさんの事件の後、同じ英国人の女性リンゼイ・アン・ホーカーさんが日本で殺害されたときにはイギリスで「(ルーシー事件同様)日本ならではの犯罪」との報道するマスコミもあったそうなのですが、それについても日本の犯罪発生率の低さと、犯罪に占める暴力犯罪率の低さを挙げ(イギリス21%に対し日本は3.5%)ステレオタイプなものの見方に疑問を投げかけています。

しかしそんなパリー氏も、日本の警察と裁判には批判的です。そのうちのひとつだけを引用します。

私のインタビューに答えてくれた数少ない警察官は誰もが誠実で、ルーシー事件解決のために昼夜を問わず献身的に捜査に邁進した人々だった。不幸にも、彼らが使える組織は -昔もいまも- 傲慢で、独善的で、往々にして無能だった。

ここを読んで、よしてるが思い出したのはこの言葉でした。「ノモンハンで日本軍と戦ったジューコフ元帥は日本の下級士官、下士官、兵の戦意、能力を高く評価した一方、高級士官たちの能力に対する疑問を回想録で書いている。ビルマで戦った英軍将校の中には『日本軍はもっとも頭の良い人を軍曹にし、もっとも悪い人を高級指揮官にしたのではあるまいか』と皮肉った人もいる」(引用元:日本財団図書館(電子図書館) 私はこう考える【自衛隊について】)。


「日本初心者」への解説

また本書は、海外読者を念頭において書かれた本であるため、日本社会・文化に親しみのない人への「解説」が簡潔かつ的確で、わかりやすいという特徴もあります。これが個人的には「そうか、外国の人はこういうことは知らないんだ」ということを理解するきっかけになったり、勉強になったりしました。たとえばこんな箇所がそうでした。

  • ホステスの仕事には性行為や性的接触は含まれず、飲食接待のみ
  • ホステスには同伴出勤のノルマがある(同伴出勤の意味も解説)
    • だから、ルーシーが織原のマンションまでついていったことを不用心と一方的に言うことはできないのではないか
  • 日本では英国航空の客室乗務員がホステスになったことを怪訝に感じる人が多かったが、それは日本では客室乗務員が「あこがれの職業」だからである(イギリスでは客室乗務員は「空飛ぶウエイトレス」という認識なので、ホステスに転職してもそれほど驚かない)
  • 在日コリアンへの差別の背景(豊臣秀吉までさかのぼって解説)と現状
  • パチンコ換金の仕組み
  • 日本の裁判で特徴的なのは有罪率(アメリカでは刑事被告人の73%が有罪、イギリスも同程度、日本は99.85%)
    • そのため報道量は判決・量刑よりも容疑者逮捕の時のほうが多い
    • マスコミも、逮捕前は「○○さん」「○○氏」、逮捕されると(起訴される前なのに)が「○○容疑者」に変える
    • 刑事事件の被告弁護人になりたがる弁護士も少ない(有罪率の高さだけでなく「犯罪者の行動を正当化しようとする人間」として蔑視される傾向があるため)
  • 織原が2001年から約10年間暮らした拘置所と異なり、有罪確定後移送される刑務所は:
    • 雑居
    • 本や書類の持ち込み不可
    • 面会は月に1度のみ、それも近親者に限られる。弁護士との面会は禁止されてはいないが毎回許可が必要

日本について改めて学べる箇所は、まるで以前NHKで放送されていた池上彰さんの「こどもニュース」の大人版(矛盾に満ちたたとえですみません)のようでした。



以上、丁寧で質の高いドキュメンタリーで、ページをめくる手が止まらず(特に事件発生以降)、日本社会について改めて知ることもできる、価値の高い本でした。陰惨な事件を題材にしているにもかかわらずラストでは救いや明るさのようなものが感じられるのも素晴らしい。ザ・タイムズ紙アジア編集長・東京支局長の役職が伊達ではない、パリー氏の力量と人間性を感じられる一冊です。