庭を歩いてメモをとる

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ジョージ・ハリスン逝去 -当時ネットではどう伝えられたか

ジョージ・ハリスンが亡くなって今日で20年。

当時、それがネットでどのように伝えられたのか、私のハードディスクを掘り起こして振り返ってみます。

(なお、世の中のデータでは、それは2001年11月29日ということになっています。ですが、日本でこのニュースが報道されたのは、時差の関係もあり11月30日金曜日の夜でした。だから当時日本でそれを経験した人間にとってはそれは11月30日なのです。今も、ジョン・レノンが亡くなったのは12月8日じゃなくて12月9日だ、と当時を経験したファンが語るのと同じように。)


公式サイト

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引用元:ジョージ・ハリスン公式サイトトップページ(2001年11月30日)

"All Things Must Pass"の歌詞。何も言うことはありません。

なお、当時の公式サイトのドメインは"allthingsmustpass.com"でした。今、このドメインにアクセスすると現在の公式サイトURL"georgeharrison.com"に転送されます。


日経新聞

当時日経新聞をメインで読んでいたので(今もですが)、当時のPC画面から(横幅が狭いのでスマートフォンの画面のようですが、当時まだスマートフォンは存在していません。そしてPC画面の横幅はまだ今のように広くなかった。)。

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引用元:日本経済新聞「NIKKEI NET」2001年11月30日

サイトのデザインが過ぎ去った時の流れを感じさせます。


当日の日経(NIKKEI NET)の他の記事から、引用を続けます。

「弟のようだった」ポール・マッカートニーさん

 ポール・マッカートニーさんの話 とても、とても悲しい。たぐいまれなユーモアの持ち主だった。ずっと昔から一緒で、私にとっては弟のようだった。(ビートルズで)ともに過ごしたすばらしい時代の思い出とともに、彼のことを覚えておきたい。がんと長く闘っていたのは知っていた。最後に会ったのは数週間前で、具合はあまりよくなかったが、相変わらず冗談をとばしていた。(ロンドン=加藤秀央)

後日、この「冗談を飛ばしていた」ときのことをもう少し詳しく知ることになるのですが、そのエピソードで、私はジョージがさらに好きになりました。

「たくさんのものをくれた」オノ・ヨーコさん

 【ロサンゼルス30日共同】元ビートルズのジョージ・ハリスンさんの死去について、元メンバーの故ジョン・レノンの夫人オノ・ヨーコさんは30日、AP通信に対し「これまでジョージは本当にたくさんのものをわたしたちに与えてくれた。亡くなった後も、音楽と機知、そして賢明さで、ジョージはたくさんのものをわたしたちに与え続けてくれる」と語った。


「とても悲しい」エリザベス英女王

 【ロンドン30日共同】英バッキンガム宮殿は30日、エリザベス女王が元ビートルズのジョージ・ハリスンさん死去の報に接して「とても悲しい」と語ったとの声明を発表した。
元ビートルズのメンバー、リンゴ・スターさんも「ジョージの細やかな愛情や音楽のセンス、笑いを失って、僕たちは悲しい」と語った。

ちゃんとメンバー(の家族)のメッセージすべてが読めたことがありがたかった。

故郷リバプール市庁舎に半旗・市長「最も偉大なリバプール市民」

 【ロンドン30日共同】ビートルズとジョージ・ハリスンさんら元メンバーをはぐくんだ英中西部リバプール市は30日、ハリスンさんの死を悼んで市庁舎に半旗を掲げた。

 スコット市長は「ハリスンは温かい人柄で、平和を愛した。単なる才能のある音楽家としての枠を超えた人間であり、最も偉大なリバプール市民の1人だった」と述べた。

 同市は市庁舎内に弔問客用の記帳場所を設置、ハリスンさんをしのぶ記念行事を計画している。同市のビートルズ記念館は「音楽家として、人間として素晴らしい人物を失った」とする声明を発表した。

内容とは直接関係ないですが、リバプールがビートルズのメンバーを「はぐくんだ」という言葉の選択がいいな、と感じた記事です。

英テレビはジョージ一色・白黒のテレビ映像や映画シーンなど

 【ロンドン30日共同】英国では、テレビがちょうど30日朝のニュース・ショーの最中にジョージ・ハリスン氏の訃報(ふほう)が飛び込み、予定を変更して、天気予報以外はハリスン氏に関係した番組一色となった。

 公共放送のBBCテレビも民放のITVテレビも、昔のハリスン氏のマネジャーや伝記作家に電話を入れて、故人をしのぶ思い出やエピソードを次々に話してもらい、画面はビートルズの古い白黒のテレビ映像や映画のシーンを延々と放映した。

 「4人の中では静かで理性的な男だった」(元マネジャーのアラン・ウィリアムズ氏)「インドに行ってシタール(弦楽器)を学んだことが後半のビートルズに影響を与えた」(アラン・クレイソン氏)などと、同じ人物がどこの放送局にも登場。

 午前9時前にニュース・ショーはハリスン氏の写真を黒枠にした静止画を映し出した状態で静かに終わった。

 連日、繰り返し伝えられたアフガニスタン情勢の映像も、この日ばかりは押しのけられた。

イギリスはロックミュージシャンに関する報道が日本とはけた違いに手厚い気がします。最近(といってももう5年前ですが)ではジョージ・マイケルの訃報がすごかった。

なお、ジョージ逝去当時のBBCの報道は、今も当時のサイトデザインのまますべて読めます。 → BBC News | MUSIC | George Harrison dies

米大統領、G・ハリソン氏の逝去に哀悼・落ち込んだ様子も

 「ビートルズは音楽史上、最も偉大なグループの一つだ」――。ブッシュ米大統領は30日、英国のロック・グループ、ビートルズのジョージ・ハリスン氏の訃報を受け、その死を心から悼んだ。フライシャー米大統領報道官が明らかにしたもので、大統領は同日の報道官との会話で「深く悲しんでいる」と述べ、落ち込んだ様子を見せていたという。

 報道官によれば、55歳になるブッシュ大統領はビートルズの大ファン。大統領の心境を報道官は「ベビー・ブーマー世代にとって、ビートルズは今でも人生の大きな一部だ」と代弁した。

 この日、ワシントンでは街中のレストランや行き交う車からハリソン氏の代表作「サムシング」が流れ、哀悼ムードも強まった。CNNなど米テレビも早朝からハリスンさんの死去をトップニュースで扱い、それまでトップだったアフガニスタン情勢は2番手以降に回された。(ワシントン=春原剛)

ブッシュ氏とビートルズってあまり結びつかない感じですが、本人も語っているように、やはり世代的なものもあって特別な存在だった、ということなのかもしれません。

サザンの桑田佳祐さん、コンサート中に黙とう

 横浜市で開かれた世界エイズデーにちなむチャリティーコンサートに参加したサザンオールスターズの桑田佳祐さん(45)は30日夜、ジョージ・ハリスン氏の死を会場の聴衆約4000人に伝え、全員で30秒の黙とうをささげた。

 桑田さんは「ここまでやってこれたのも、ビートルズのおかげです。何の因果でしょうか、きょう歌うことになるなんて」と語り、ビートルズの曲を次々に歌った。

桑田さんがビートルズの曲をやるのは珍しいことではないですが、この日の演奏は特に聴いてみたいな・・・

「オール・シングス・マスト・パス」などレコード会社に注文殺到

 元ビートルズメンバーのジョージ・ハリスン氏死去の報道が流れた30日夜、レコード会社などには音楽ファンや関係者からの問い合わせが相次いだ。

 ハリスン氏のCDを出している東芝EMIには、ラジオなどでニュースを聞いたという全国各地のレコード店から「オール・シングス・マスト・パス」など旧譜の注文や確認が殺到した。同社は今後の反響次第で、追悼盤の発売も検討するという。

 東京・銀座のヤマハミュージック東京銀座店では急きょ、ハリスン氏とビートルズのCDを並べたコーナーを特設。東京都内の別のレコード店でも、ハリスン氏の死去を知らせる告知板を店内に設けるなど、来店者への対応に追われた。

これは日経らしい記事ですね。追悼盤といえばMy Sweet "Road"事件がありましたね・・・


報知新聞

他のメディアの報道で、一番印象に残ったのは報知新聞でした。運動二部・谷口隆俊デスク(当時)の記事が、ファンにしか書けない内容だったからです。

Quiet Beatle(静かなビートル)―ビートルズ時代にはこうも呼ばれていたジョージ・ハリソンが、その名の通り、静かに息を引き取った。家族に見守られての永遠の旅立ち。10年前の11月29日、エリック・クラプトンらと来日したジョージはコンサート前の記者会見に臨んだ。自らの演奏への期待に胸を膨らませながら、多くの日本のファンにメッセージを送った記念すべき日からちょうど10年。希望に満ちたジョージの顔は、もう二度と微笑みを浮かべない。

そうか、あの日からちょうど10年だったのか。気づいていなかった。このことを教えてくれたこの出だしで、この人の記事をちゃんと読もう、という気持ちになったのを覚えています。

ちなみに谷口デスクは、この記事の後半で、アルバム"All Things Must Pass"が「母国・英国では1970年11月30日に発売された。日本ではそれからちょうど31年後、訃報がもたらされた。」という点も指摘しています。

冬が近づき、街がクリスマスカラーに彩られ始めるこの時期、1980年12月8日に命を奪われたジョン・レノン(享年40)の曲を聴くたびに胸がキューっと締め付けられてきた。そんな時、ジョージがビートルズ時代に発表した「Here Comes The Sun」を聴くと元気が出た。寒い朝でも、ポカポカな太陽が暖めてくれるような感じになった。アリマックスシアター*1で上映された「エベレスト」というドキュメンタリー映画のラストで、この曲が流れる。壮大なヒマラヤ山脈の景色が目の前に広がって、気持ちが新鮮になった。これからは冬になるたびに、この曲が寂しく聞こえるのだろうか。

いや、ほんとうに、今も私は"Here Comes The Sun"を聴くと、ときどき「ジョージ、もういないんだな・・・」と感じることがあります(このメモの最後に書く、ある出来事の影響もあって)。熱心なファンとはいえない自分でさえも。


この記事では他にも、ジョージの曲でのポールの名ベースプレイが多いことやジョンが「ノルウェイの森」でシタールをジョージに薦めたエピソードを「ジョンも、ポールも、ジョージに対しては“本気”になった。」と記述したり、アルバム"All Things Must Pass"を「自作を発表できなかった思いが3枚組で一気に爆発。ジョンもポールも認めた実力がふんだんに披露されるアルバムに仕上がった。ビートルズのホワイトアルバムに負けないくらい、様々な「顔」のジョージの曲が並ぶ。それでいて、透明感を全体的に感じる。」と表現。

また、ジョージのジョークや"He's So Fine"→"This Song"のエピソードや「交通事故、盗作騒動、ガン、暴漢に襲われるなど数々の試練を乗り越えてきた。一見、もの静かな男。だが、同時に強さを内に秘めていた。」と、ジョージの人となりについても限られた紙面で熱く伝えてくださっています。


最後はこのように締めくくられています。

ジョージは今年、息子ダニーと共に、元スクイーズのピアニスト、ジュールズ・ホランドの新アルバム用に「Horse to The Water」という曲を書き、その曲のために新会社を設立したという。会社名は「RIP LTD. 2001」。これはどういう意味か。RIPは「Rest In Peace(安らかに眠れ)」という意味らしい。自らの鎮魂歌だったのか。このアルバムは19日に英国で発売された。

このように、この記事は、故人への愛をもって情報を正確かつ的確に伝えるという、メディア追悼における理想のような記事だと思います。


Apple

マスメディアだけでなく、アップル(当時は「アップルコンピュータ」)も追悼のページを設けていました。

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引用元:アップルコンピュータ社(当時)公式サイトトップページ(2001年12月5日)

今でこそアップルはコンテンツ産業の一翼を担う存在ですし、ビートルズがiTunesで配信を開始したときにも大々的な告知をしたくらいですから、この対応もなんとなく理解できます。が、この時はまだ初代iPodが発売されて1か月あまり。iTunes Musicすら始まっていません(2003年開始)。コンテンツはほぼ何も売っていないから、社名もまだアップル「コンピュータ」です。

そんな中でのこのページは、アップル(というかジョブズ?)がビートルズへの特別な想いを大々的に示した最初のケース*2だったのかもしれないな、と今思った次第です。


個人的な経験

最後に、私個人の経験について。

その日は、同業のグループ会社が全国から大阪に集まり、業務改善の発表をするというイベントのある日でした。

私はそのイベントの裏方としての仕事をし、その後は懇親会に出席。夜、会場を出た時にはここちよい疲労と酔いに満たされていました。

同僚たちと別れたあと、PCに届いたメールを携帯電話でチェック*3。画面には、ビートルズファンの友人たちとのやりとりに使っているメーリングリストからのメールタイトルが並びます。

そこに「ジョージが!」という文字。差出人は、全国紙の新聞記者を務めている友人です。

疲労も酔いも、今までなかったかのように消え去りました。

これは私が「ネットで知った、はじめての衝撃的な事件」だったように思います。そういう点でも、忘れられない出来事だったのです。

そして帰宅して、ラジオをつけたら、流れ始めたのが"Here Comes The Sun"でした。

関連メモ

*1:引用者注:原文ママ

*2:社名とビートルズの関連については諸説あり。

*3:i-modeの「リモートメール」というサービスを使用していました。


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