このタイトルだけを見れば、日本がなぜ太平洋戦争を始めたのか、その理由とそれが避けられなかった事情が書かれている、そんな本だと思うでしょう。しかしそうではありませんでした。この本の実際の内容は、歴史学者である著者が、高校生を相手に、日清戦争から太平洋戦争までの各戦争に至るまでの日本と関係諸国の利害関係の変化等を克明に語りつつ、なぜそうなったかを一緒に考えるというものでした。戦争が避けられない選択肢だった、と主張しているわけではないのです。
そんなふうに、タイトルから受ける第一印象とは違うけれども、しっかりした歴史の紐解きと考察があったというわけです。この中で、新たに知ったポイントをメモしておきます。
日露戦争
日露戦争の勃発理由の考察は、時代とともにかなり変化があった。1970年代までは、日本は帝国主義国家として成長してきたのだから、満州に市場を求め、すでに満州に鉄道を敷設しているロシアに門戸開放を迫るために戦争に訴えたとの解釈が有力だった。しかし、ロシア側・日本側の史料が公開された結果、やはり朝鮮半島の安全保障の観点から、日本はロシアと戦ったという説明ができそう。2005年の日露戦争に関する国際会議では、ペテルブルグのロシア史料館・ルコイヤノフ氏によれば、参戦の積極性はロシアの側がより強かったと発言していた。根拠は以下。
戦争前の日露交渉において、日本はロシアに対し、「韓国における日本の優勢なる利益」を認めてくれ、それならロシアは満州におけるロシアの鉄道権益は認める、との考えを示していた。ロシアの返答は「日本は満州について論じる資格がない」「日本が韓国に優勢なる利益を求めるなら、ロシアは朝鮮海峡を自由航行したい。また、北緯39度以北の韓国は中立化して日本が軍事使用しないことが条件」と言ってきた。
日本としては、韓国問題は譲れない。しかしアメリカやイギリスからお金を借り、軍艦の購入に便宜を図ってもらうためには、韓国問題は使えない。それは日清戦争のテーマ、つまり済んだ話で、イギリスやアメリカには関係ない、と言われるのが落ち。それよりも、アメリカ・イギリスは大豆という世界的な輸出品を産する満州に関心がある。それならばと、日本はアメリカ・イギリスに満州の門戸開放を訴えた。両国は日本に財政援助をした。このように、日本は欧米に向けて語る戦争の正当化の論理と、自らの死活的に重要なものを説明する言葉がずれていた。
1904年2月11日(日露戦争開戦後)の原敬の日記には、「我国民の多数は戦争を欲せざりしは事実なり。・・・日露交渉を成立せしめんと企てたるも、意外にも開戦に至らざるを得ざる行き掛かりを生じたるもののごとし」とある。山県有朋も、桂太郎首相に対し、「韓国問題は譲れないけれど、満州の門戸開放などはロシアのいうとおりでいいじゃないか、それで話し合いを続けなさい」と開戦一ヶ月前になっても言っている。一方ロシアでは、1903年10月ごろベゾブラーゾフ一派が宮廷で権力を掌握、ベゾブラーゾフも極東総督に任命される。彼は、ロシアの中でも最も積極的な意見と野望を持っていた。皇帝に「満州に鉄道を通すよりも韓国をとっておけばお金がかからないですよ(朝鮮半島を押さえ海方向から満州を守ると鉄道敷設・街建設をしなくていい)。日本なんかヘナチョコですよ。」と意見するようになった。日露戦争は1904年2月8日開戦。
日露戦争も結局朝鮮半島の利権争いが背景にあったというのは新しい視点でした。ここは面白い。ただ、日露戦争をやりたかったのはロシア、というのは今ひとつ納得いきません。最初に砲撃したのは日本ですし。あるいは後に書くように、それも軍部の独断だったのかもしれませんが。
満州事変
1931年7月、満州事変の直前に東大生に「満蒙(南満州と東部内蒙古)のための武力行使は正当か」との意識調査を行なったところ、88%が「はい」と答えている。一般的に、知的訓練を受け、社会科学的な知識を持っている人間は、外国への偏見が少なく見方が寛容になる傾向があるにもかかわらず。それだけ、満蒙問題を巡っては、国民の中にある種の了解が高まっていた。その理由は以下。
満蒙に関して、日本は中国に「南満州鉄道の沿線に鉄道守備兵を置く」「中国は満鉄の併行線を敷設できない」と主張していた。前者の根拠は日露間で鉄道守備兵を置くことを決めたのだから中国はそれに異議を唱えられない、後者の根拠は日清条約の秘密議定書に書いてあるから、というものだった。しかし中国に言わせれば前者はこんな権利はそもそもロシアにも与えた覚えはない、後者は実際は議定書ではなく日中の会議録の文中に記載された文言にすぎない、と反発していた。しかし陸軍は、国防思想普及講演会を全国で開き、「中国は約束を守らない。満蒙の特殊権益を無法者の中国から守らなければならない」と国民を扇動した。
一方で陸軍は、実は、1928年1月19日の陸軍大学校教官石原完爾の報告にあるように、対ソ戦のためには、中国の資源を利用すれば持久戦ができると考え、国民を扇動したのとは別の、「将来の戦争のため」に満蒙を必要としていた。
満州事変はよく準備された謀略だったとは聞いていましたが、事前の国民への「根回し」も含めるとかなり遠大な計画と言えるでしょう。そこまでやるモチベーションが軍にあったのはなぜ?と新たな疑問を感じてしまいました。さらに、いろんな「環境」もこの謀略の継続を後押ししたようです。
1931年9月18日、関東軍の謀略により満州事変は起こされた。本来、閣議はこの行動をこれ以上拡大しないように止めることができたはずだが、若槻内閣はそれができなかった。なぜそうなったのかについて、現在の研究では、若槻内閣の結束不足が挙げられている。具体的には、若槻内閣を組織した民政党において、選挙の神様と言われた内務大臣・安達謙蔵が、軍部や右翼からのテロ攻撃に政党内閣が屈しないためには、野党であった政友会とも提携が必要であると考えていた一方、井上蔵相などは政策の異なる政友会とはやっていけないと考えていたことなどがある。実際、同年12月11日、この点における閣内不一致で若槻内閣は総辞職となった。
また、この時点で政党が戦争反対の声を挙げられなかった理由は大きく二つある。ひとつは、日本の中国侵略に最も早くから反対していた日本共産党員やその周囲の人が、1928年と1929年に計827名起訴されたこと。これは、1928年に行なわれた初の男子普通選挙において共産党が公然と活動を開始したことに危機感を強めた田中義一内閣が行なった。もひとつは、共産党に次いで戦争に反対すると思われた合法無産政党の内部事情である。たとえば、全国労農大衆党は、1931年に「帝国主義戦争反対」をスローガンにして選挙を戦った。しかし兵士(有権者)の待遇改善を考えると、どうしても陸軍を怒らせるスローガンは通りにくいため、32年の選挙においては、「服務兵士家族の国家保障」をスローガンとした。これは出征した兵士が勤務先から解雇されないようにするなどの保障だが、この保障を勝ち取っていたのは陸軍省だった。
陸軍、関東軍の準備だけでなく、世の中のいろんな要素が戦争を後押ししていったのですね。世の中が動くときというのは、動かそうとする意思やエネルギーと、それを後押しする要素の両方があって動くのだなあと改めて思いました。
さて、私が個人的に、この後太平洋戦争そして敗戦へつながる大きなきっかけとなったと考えている国際連盟脱退についてはどうでしょうか。どんな要素があったのでしょうか。
国際連盟脱退については、慎重論もあった。内田康哉外務大臣は日本が満州国に関する問題で強く出れば、中国国民政府の宥和派が日本との直接交渉に乗り出してくるとの目論見があった。実は蒋介石もそう考えていた。そこで内田外相は、33年1月19日、昭和天皇に対し、「連盟の方はもう大丈夫です、脱退などせずにすみそうです」と報告した。しかし天皇は全く納得しなかった。結果的に国連脱退時の全権となる松岡洋右も内田外相に対し「そろそろ強硬姿勢をやめないと」という電報を33年1月末に送っている。そんな中、陸軍は満州国南部で軍隊を侵攻させることにした(熱河作戦)。陸軍は、満州国内にある日本の軍隊を動かすだけ、という認識だったが、実際には連盟規約第16条「連盟が解決に努めているとき、新たな戦争に訴えた国はすべての連盟国の敵とみなされる」に反していた。満州国は連盟に認められていないので、連盟からは「日本が中国に侵攻した」と認識されるのだ。これに気づいた斉藤首相は天皇にこの作戦の裁可を取り消して欲しいと頼み、昭和天皇もそうしたいと考えたが、侍従武官長奈良武次と元老西園寺公望は、「天皇が前言撤回したら権威が失われる」「陸軍が天皇に反抗するかもしれない」という理由で、昭和天皇に取り消しをしないよう進言。2月11日の奈良の日記には「(天皇の)ご機嫌、大いによろしからず」とあるが、結果的に裁可の取り消しはなかった。その後、2月20日の閣議で、連盟の日本への勧告案が総会で採決された場合には自ら連盟を脱退する方策が決まり、2日後熱河作戦実行、その2日後、2月24日には松岡洋右全権が連盟総会の議場から退場する。このとき、斉藤首相と天皇の考えのとおりになっていれば、日本の歴史はまた別の道を歩んだかもしれない。
この本も含め、いくつかの本を読んだ限りでは昭和天皇は聡明であったと思います。だからこそ、そこまでの政局理解力があるなら、もう一歩強く出てほしかったと改めて感じました。
日中戦争
1930年の産業別就業人口は、農業が46.8%。しかし農民が望んでいた政策は普通選挙を通してもなかなか実現されなかった。1929年から始まった世界恐慌でも農村に大きな影響が出たが、政友会も民政党も農民の負債対策には冷淡だった。34年10月、陸軍は「国防の本義と其強化の提唱」で「農産漁村の疲労の救済は最も重要な政策」と述べた。具体的には、34年1月の「政治的非常事変勃発に処する対策要綱尾」で、義務教育の国庫負担、肥料販売の国営、農産物価格の維持、耕作権などの借地権保護などが挙げられていた。政治や社会を変革してくれる主体として陸軍に期待せざるを得ない国民の目線はあったといえる。
陸軍が政党のようなかたちで期待を集めていたというのは初めて知りました。ただ怖いだけの存在ではなかったのですね。
あと、この時期、中国にはすごい人物がいたものだと感じたのがこれです。
1938年に中国国民政府の駐米大使となった胡適は、「日本の勢いを阻止できるのはアメリカの海軍とソ連の陸軍しかない。日本はそれをわかっているので、この二国の軍備が完成しないうちに中国に戦争をしかけてくるだろう。アメリカとソ連をこの問題に巻き込むには、中国が日本との戦争を受け止めて、2,3年間負け続けることだ。こうしていれば、日本軍が西方南方に移動しなければならなくなり、ソ連はつけ込む機会が来たと判断する。英米は日本を脅威に感じ、軍艦を派遣せざるを得なくなる。太平洋の海戦がそれによって迫ってくる。」と論じた。これに対し汪兆銘は、35年の時点で「胡適の言うことはわかるが、それをすると中国はソビエト化してしまう」と論争している。結果的に、歴史は二人の言うとおりになった。
著者は、胡適の論がそのまま受け入れられたわけではないだろうが、これほどの覚悟があったからこそ、あれほど領土を占領されても中国は屈服しなかったのかもしれないと述べていますが、確かにこういうことを思いつきそしてそれを発言できる政府というのは底力を秘めているのでは、と私も思いました。
太平洋戦争
書名から期待した「日本が太平洋戦争を起こした理由」については明確なまとめはありませんでした(この点については、以前読んだ吉田裕「アジア・太平洋戦争」がよくまとめられていると思います。)。様々なデータを挙げ、持久力のない日本は先制攻撃短期決戦しかなかった、という真っ当な話を挙げているにとどまっています。しかしパーツで興味深いところがあったのでメモしておきます。
1941年10月18日、東条英機首相は陸海軍の課長級に「戦争週末促進に関する腹案」を作成させた。内容は「ドイツとソ連を日本が仲介して独ソ和平を実現させ、ドイツの戦力をイギリス戦に集中させることでまずはイギリスを屈服させる。そうなるとアメリカの継戦意欲が失われるだろうから戦争は終わる。」すべてがドイツ頼み、他力本願の極致。
素人が見ても却下しそうなこんな説明が通っていたということは、既に何が何でも戦争という体制になってしまっていたということかもしれませんね。満州事変から10年かけてそうなっていったということでしょうか。
なぜアメリカは戦艦を無防備な状態で真珠湾にずっと置いていたのか。これは当時の魚雷発射の技術からの判断による。魚雷は、高度100mくらいから海に落とされると、まず海面下60mくらいに沈み、それから浮き上がって水深6mを進み、軍艦に当たる。この点、真珠湾は水深12mの浅い湾であったから、魚雷攻撃はありえないと考えられていた。しかし日本軍は地形の似た鹿児島湾で訓練を重ね、3ヶ月で真珠湾を攻撃できる魚雷の発射方法を習得した。
これは最近の研究でわかったことらしいですが、歴史って研究で劇的に見方が変わることってあるんだなと感じました。アメリカの無防備さから「アメリカは真珠湾攻撃を事前に知っていて戦艦をスケープゴートにした」という説が唱えられていますが、それが誤りであることを示唆する新たな情報が出てきたわけですね。
満州移民の悲劇(200万人中24万5,400人がソ連侵攻後に亡くなっている)の根本には日本の政策がある。飯田市歴史研究所編「満州移民」によると、多い村では村民の18.9%が満州移民となった。世界恐慌後の糸価の暴落で生活が苦しくなった上、国や県が「村ぐるみで満州に移民すれば助成金を出して村の道路整備などができますよ」と持ちかけたため、移民を勧められるケースが多かった。しかし大下条村の佐々木忠綱村長は、助成金で村人の生命に関わる問題を容易に扱おうとする国や県のやり方を批判し、移民に反対した。このように先の見通しの聞く人物もいた。
政策にも責任はあるものの、国民側でもそれに対抗することも(困難ではあるが)可能という例ですね。本書のテーマとは少しずれますが、印象深かったのでメモしました。
過去の歴史が与えた影響
私たちは、歴史から何かを学び、現代に活かそうとします。著者ももちろんそのことに意識的なのですが、それを中途半端にやるととんでもない結果を生むという事例も示しています。
ボリシェビキは、フランス革命がナポレオンという軍事的カリスマによって変質した結果、ヨーロッパが長い間戦争状態になったと考えた。そのため、レーニンの後継者には、軍事的カリスマ・トロツキーではなく、国内支配をしっかりやりそうなスターリンを選んだ。
トロツキーがトップになったソ連を見たわけではないので断言はできませんが、断言にかなり近いレベルで、この人選は大失敗だったと言える気がします。
アメリカ人の歴史家、アーネスト・メイによれば、アメリカがベトナム戦争に深入りした理由は、せっかく敵であった日本が倒れて大きな市場になるはずだった中国が共産化してしまった「中国の喪失」の体験からだという。
人間だけでなく国家もトラウマには抗いにくいということでしょうか。
人々は重要な決定をしなければならないとき、自らが知っている範囲の過去の出来事を、自らが解釈した範囲で参照する。このとき、いかに広い範囲から、真実に近い解釈で過去の教訓を持ってこられるかが分かれ道になる。
これは著者のメッセージですが、これは歴史学というより生活におけるノウハウのようなものですね。これは理屈ではよくわかる話ですが、実行するのは非常に難しいでしょう。とはいえこの理想に少しでも近づいていきたい気持ちはあります。広い知見と正確な解釈。せめて歳を重ねることが、この二つのレベルアップにつながればいいなと思います。
以上、いつものように抜き書きメモを記載しましたが、この本は特に通読することに意味があると感じています。日本と関係諸国の関係がどう変化していったのか。そのうねりを体験できたのがこの本からの一番の収穫でしたから。