京都大学時計台記念館 百周年記念ホールで行われた河合隼雄物語賞・学芸賞創設記念の春樹さん講演&公開インタビュー「魂を観る、魂を書く」を拝聴することができました。自分でも信じられない幸運です(500人収容の会場で、司会者さんが「飛行機か新幹線で来られた方はどのくらいらっしゃいますか」と挙手を促したところ、半数近い方が手を挙げられていました)。以下、感想をメモします。
※講演及びインタビュー内容はよしてるによる要約です。春樹さんの言葉そのままを記載しているわけではありません。
英語版はこちら→Walking in The Pleasure Garden: A Public Interview with Haruki Murakami in Kyoto
春樹さんの印象
もちろん、生春樹さんを拝見・拝聴するのは初めてでしたが、予想外にお話が上手で笑顔をよく見せる方でした。これまで笑顔の写真をほとんど見たことないんですが今日はしょっちゅう。それも微笑みではなくいたずらっ子の笑い、茶目っ気のある表情、屈託のない笑顔という感じ。
自分が笑顔を見せるだけではなく、冗談も連発。講演冒頭で「なぜ自分がテレビやラジオに出ないか」という話をするときなど1分に1回は笑いを取っていましたし(後述)、その後もあちこちでジョーク。
一方で、ランニングやトライアスロンで鍛えた精悍なイメージも強く感じました。64歳にはとても見えません。ご本人は小説家であり続けるため、いい作品を書くために体を鍛えているとエッセイなどでおっしゃっていますが、アンチもすごく多い方です。そこらじゅうで発せられる批判をやり過ごせるように鍛えられた結果かな、とも感じました。それこそ新作「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」の主人公がある出来事の後に「別の体」になってしまったのと同じように。
冒頭のスピーチ
第一声は「こんにちは、村上です。」。それから、なぜ春樹さんが人前に出ないのか、についての説明。
僕は普段あまり人前に出ません。恩を着せるわけではないんですけど、僕は普通の人間だからです・・・
中古レコード屋や古本屋で買い物を楽しんでいるときに「村上さんですか」と声をかけられると困ってしまいます。だからテレビには出ないようにしています。ではどうしてラジオに出ないのかと訊かれると答えに窮するんですけど・・・そういうのには向いていないということなんだと思います。私は小説を書くのが仕事なので。
近所で、知らない人に「この辺に村上なんたらっていう作家の家ありませんか」と訊かれたので、さあ・・・と言って逃げたこともあります。人の家探すならせめてフルネームは知っておいた方がいいと思うんですが。運転免許の更新の時、窓口の人に村上春樹さん!村上春樹さん!と大声で呼ばれて同姓同名ですよね?と言われたので、そうなんです、いつも迷惑してるんですと答えておきました。
僕のことは絶滅危惧種、イリオモテヤマネコと思っていただけるとありがたいです。見かけたら、そっと見守っておいてほしいです。近づいたり声をかけたりするとおびえてかみつくかもしれませんので気をつけてください。
これで、緊迫した雰囲気は一挙にやわらかいものに。春樹さんは、たしかに人前に出るのが苦手なのかもしれないけど、こんなに上手に会場をリラックスムードに持っていきながら自分の伝えたいこともしっかり伝えるその技に感心しました。きっとすごく準備されたのだろうと思います。そこに誠実さを感じました。
河合隼雄さんとの出会い・交流
河合先生に初めて会ったのは1993年のアメリカ。私がプリンストン大学からタフツ大学に移るとき、河合先生がプリンストンに客員教授として来られた。先生の本は読んでいなかったが、家内が先生のファンで「本をあえて読まなくてもいいが、会うといいかもしれない」と薦めてくれた。
家内と私の本棚はすっぱり分かれている − ベルリンの壁で隔てられた東西ドイツのように。だから私の知らないことを知っていた。それに家内が「本は読まなくていい」と言ったのも適切だったと思う。実作者(文章を書く人)が相手を理解するには、本を読むより実際に会うほうがいい。
奥さんは春樹さんの最初の読者で、かなり厳しくまた適切なアドバイスをされる方だとエッセイで読んだことがあります。「世の中にはゼロから1をつくるのが得意な人と、できたものを分析するのが得意な人がいる。僕は前者で、妻は後者です」というような内容も。このエピソードもまさにつながっているなあと感じました。
小説はブラックボックスで、小説家はそれを総体で提供すべき。読者はそれを好きなようにさばいて咀嚼する。小説家がそれを事前にさばいたり咀嚼するほど具合の悪いことはない。
我々は何かを共有していたという物理的な実感があった。
何を共有していたか。それは「物語」というコンセプト。「物語」は人の魂の奥底にあるもので、人になくてはならないもの。奥底にあるものだからこそ人と人とを根元からつなぎ合わせることができる。私は小説家として深い場所に降りていく。河合先生も臨床家としてクライアントの深いところに降りていく。そういうことを理解し合っていたと思う。犬と犬がお互いをにおいでわかりあえるように。このことをわかりあえたのは河合先生だけだった。そういう人は今もいません。はっきり言って(ここで春樹さんの言葉が途切れる・・・)。
僕がイメージする「物語」という言葉を、本当に正確に丸ごと受け止めてくれたのは河合先生だけ。僕が理解されているというフィードバックを感じることができた。だから僕がこれまでやってきたことが間違いではないと思えた。こう言うといささか問題があるかもしれないけど、それに匹敵する励ましを文学の世界で受け取ったことがない。これは残念で不思議で悲しいことですが・・・。先生のご冥福をお祈りします。
「村上春樹、河合隼雄に会いにいく (新潮文庫)」にも書かれていた内容ですが、春樹さんから直接お話を伺うと、このことが春樹さんにとってどれだけ重要なことで、また河合隼雄さんがどれだけかけがえのない人だったかが骨身に染みてわかりました。人前にめったに出ない春樹さんが今回このイベントを引き受けたのも頷けます。
作品の深み
人間は二階建ての家。1階は入り口があって家族がいる。2階は家族それぞれの部屋があり音楽を聴いたり読書をしたりする。地下室には人々の記憶の残骸が置かれている。
地下二階には闇に満たされた部屋がある。どこまで深いかわからない。地下一階に降りるくらいでも小説や音楽は書けるがそういう作品では人の心は動かせないんじゃないか。そこにも記憶や魂の残骸はあるが、それだけでは不十分なのでは。
スコット・フィッツジェラルドは「人と違う物語を書きたければ、人と違う言葉を書け」と言った。彼は人の心をとらえる文章を書く。セロニアス・モンクは他の人と同じピアノという楽器を使っているとは思えないユニークな音楽をつくる。そこまでまで行かないと人の心は動かせない。彼らは深く降りていく道を見つけた。
地下二階まで行くことができている作品は少ない。地下一階小説は批評しやすい。わかりやすいから。地下二階小説はそうではないが、人の心を動かす。その差は家庭風呂と温泉(芯まであったまる)、サリエリとモーツァルトの違い(当時はサリエリのほうが人気があったが、モーツァルトの音楽は後世まで残り、サリエリはそうならなかった。)。
僕は正気のまま下に降りていけるといいなと思っています。
「ねじまき鳥クロニクル」の井戸の話を思い浮かべます。そしてこの「地下」の話はとても納得できます。本当に優れた芸術作品は体と精神の奥底を揺さぶります。そして先にあった「物語は総体で」の話と併せて言うと、春樹さんの作品をパーツではなく総体を体全体で受け止めたときのあの言葉にできない感覚は、私にとってはまさに「地下」から自分が揺さぶられているという感覚そのものなのです。だからこのお話は身体感覚として理解できたように感じています。
創作方法の変遷
最初の長編2作(ここで春樹さんは2作のタイトルを挙げて会場に「でしたよね?」と訊き、会場からまたしても笑いが。)と「中国行きのスロウ・ボート」はジャズの店をやりながら書いた。まとまった話を書く時間がなかった。書き方もわからなかった。だからアフォリズムと書ける断片のコラージュによって書いていった。
その後村上龍の「コインロッカー・ベイビーズ」を読んでこういう書き方をしたいと思い、店をやめ、好きなだけ小説を書けるようになった。それがうれしかった。物語を書く喜びにつながった。アフォリズムとコラージュに続く小説の書き方ははストーリーテリングしかなかった。
ストーリーテリングによる最初の作品が「羊をめぐる冒険」。次の「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」は「文學界」に載せた作品が元。これも悪くないが、読者の首根っこをつかまえる作品ではなかったので別の作品をくっつけた。自分を分割する書き方だった。プログラムを一切作らずどんどん書き進めていったがうまくいった。この2作は、自分でも「次はどうなるんだろう」と楽しみながら書いた。
それまでは、物語が物語であればよかった段階。第2ステップだった。第3ステップは「ねじまき鳥クロニクル」から。
「世界の終り」は二つの世界が出てきた。今度はもっと世界を分割したいと思った。ただ、あの小説は一人称で書いている。一人称で世界を分割して書くのは難しい。だからいろんな要素がある。思い出話、記憶、手紙、日記。それで重層的な世界をつくった。
僕の小説はデタッチメントから始まりコミットメントへなぜ移っていったと言われる。なぜそうしたか。それは魂のネットワークをつくりたかったから。
人間は物語がないと自分を維持するのはとても難しい。子どもも物語を求める。お話を聞かせると真似をしたりする。そうやって物語を取り込んでいる。しかしそれは非常に単純な物語。大人になるにつれ複雑になる。一人一人が個人の物語を持っている。主人公は自分。
しかしその物語には深みがあるだろうか。そうしたいなら、物語を相対化する必要がある。とはいえ自分自身で自分の中の物語を相対化するのは非常に難しい。小説家の仕事は、そのためのモデルを提供すること。
僕の小説を読んで、あなたが「私にも同じ経験がある」「私の考えていることと同じだ」と感じれば、それは僕の物語とあなたの物語が感応し、呼応し、共鳴しあったということ。これが魂のネットワークを生み、物語が相対化され、深みが出てくる。音楽もそうですよね。いい音楽を聴くと心が震える。物語の力もそういうことだと思う。読者に「なぜ村上さんは私のことがわかるのですか?」と言われることがある。すごくうれしいです。物語を相対化できたということですから。
自分の書きたいものが書けるようになったのは2000年くらい、「海辺のカフカ」からかな。それまでは書きたいのに書けないことがいっぱいあった。だから書けるものだけを書いていた。
春樹さんのすごさは、まさにこのような作品の変遷にあると思っています。友人が春樹さんを読んでみたけどつまらなかったと言ったときは、ビートルズのアルバムを1枚聴いただけでつまらなかったと言われたときのような気分になります。要は、合う合わないはもちろんあるからいいけど、違う時期の作品に接してみるとまた別の味わいがあるよ、それくらい、同じ作家(バンド)でも作品の幅と味わいが違うんだよ、ということです。ビートルズは意識的に変化したというより化学反応的に変わっていった気がしますが、春樹さんはご自身で意識して変わっていかれた。これは他のインタビューでも読んだ内容ではありますが、やはりご本人から直接伺うとより具体的で迫力がありました。
「物語」の役割について。これがこの講演・公開インタビューのひとつのテーマだったと思います。− 河合隼雄先生とわかりあえたことが創作の推進力になっている。多くの批判もあるがこのことが励みになっている。そして物語を創ったり読んだりすることの意味のひとつはここにある。だから河合先生の名を冠した賞の創設にあたり、このことをお伝えしたい。 − 春樹さんがはっきりそうおっしゃったわけではないけど、私としてはもっとも強く感じることができたメッセージはこれでした。
新作「多崎つくる」について
ここからは編集者・評論家の湯川豊氏との対談に。
(湯川さんの質問「「つくる」は現実と非現実が交差しない。これは「ノルウェイの森」以来ではないか」に対し)「つくる」は「ノルウェイの森」と違い、頭と意識が別々に動いていて、最後に一緒になるというところ。非現実はあるんだけれど、すべてリアリズムの世界に出している。羊男やカーネルサンダーズは出てこない。
あらすじにするとつまらない小説かもしれない。でも、何年か前なら書けなかった小説でもある。もともと70〜80枚の規模だった。なぜつくるが疎外されたのか、4人がどういう人なのかは書いていなかった。でも書きたくなった。沙羅がつくるに言ったことを自分も言われた。登場人物についてこんな風に(背景などを)書いたのは初めてのこと。
フィンランドの場面。実はもともと、雑誌の取材でフィンランドに行く予定が入っていた。だからフィンランドにした。しかし実際に取材に行く前にフィンランドの場面まで書き進めてしまった。だから先に「つくる」のフィンランドのシーンを書いてからフィンランドに行ったが、書いたままだった。現地でレンタカーを借りたが、小説と同じ紺のワーゲンだった。こういうことは以前にもあった。「海辺のカフカ」の香川、「ねじまき鳥」のモンゴル。行ったことがないのに書いたが、実際に行くと書いたとおりだった。導かれるというのが大事なのだと思う。
(湯川さん質問:エリが言った、ユズには悪霊がついたという「悪霊」という言葉。数回しか出てこないのに力強い。ドストエフスキーの「悪霊」もイメージしていたか、という問いに)あれはメタファーではなく本物のおばけです。逃げられないのです。
私の「つくる」を読んでの第一印象は「春樹さん作品の系譜の中で、次の段階に進んだ、という感じ」「ものすごく惹かれた、というわけではない。未回収の伏線がすごく多いし。」「フィンランドの場面だけ、なぜかものすごく情景がカラーではっきり見えた」というものです。だから「ノルウェイの森」以来のリアリズム小説だとか登場人物の描き方が今までの春樹さん作品になかったというのは言われるまで気づかなかったので新鮮でしたが(気づいてもよさそうなものですが)、フィンランドの場面の創作について聴いたときは身震いしました。また、「悪霊は本物のおばけ」と語っていたときの春樹さんの表情も口調も断固たるものだったことに、ユズの、あるいは一部の人が抱えることになってしまった闇の深さと不可避性を感じぞっとした次第です。春樹さんは「つくる」を書いていて悪霊と対峙されたのかも、とも思いました。
他の文学について
「ねじまき鳥」作中の「壁抜け」はメタファーではなく実際に体験したこと。私にとってはすべてがリアリズムなんです。よく西洋の批評家がガルシア・マルケスの作品をマジックリアリズムと評するが、マルケスも本当にああいうことを体験しているんではないか、と思う。
「1Q84」は初めてすべて三人称で書いた小説。これによって小説の中にたくさんの世界・ミクロコスモスをつくることができた。総合小説のフォーマットができたと思う。総合小説といえばドストエフスキーの「悪霊」ですね。しばらくは誰が主人公かもわからない(笑)
「百年の孤独」(マルケス)と「悪霊」は読んでみたいけど敷居が高くてまだの小説個人的心のベストテン第1位・2位だったのでこの2作が言及されてびっくりでした。これは読まねば。読みたい。
(2016年2月追記:読みました)
(インタビュアー湯川豊さんの「19世紀に比べ、20世紀は物語の力が(文学界で)弱くなっていたのでは?」という問いに)弱くなっている。僕は「カラマーゾフの兄弟」は4回、「戦争と平和」は3回読んだ。それくらい、19世紀の物語が体に染みこんでいる。
でも20世紀、特に1950〜70年代、物語文学は差別されていた(湯川さん「人間とは何か、とかいうようなものがもてはやされた時代でしたね・・・[苦笑い]」)。1980年代にジョン・アービング「ガープの世界」という物語文学が出てきたが、ああいうのは当時なかった。僕も当時かなり批判されたが、読者がいてくれて励みになった。
「ガープの世界」は映画で観ただけなのでコメントするのもいかがなものかとは思うのですが、映画を観ていたとき、ちょっと奇妙な、でも先が気になってしょうがないストーリーに、ああこの感覚って村上春樹の長編に似てるかもと感じたことがあったのでメモしました。それと、個人的に現代小説を読み始めたのが80年代からなので、物語小説受難の話は新鮮な「歴史の証言」でした。
その他
僕の作品を読んで「泣きました」と言われるより「笑いが止まりませんでした」と言われるほうがうれしい。泣くというのは個人的なこと。笑いはもっとジェネラルなもの。笑うと心が広がる。自分の作品で、一番優れていると思うのはユーモア。なるべくユーモアを入れたい(湯川さんが「新作にも笑えるところがありましたね」と言うと春樹さんが「そうですか?変わってますね(湯川さんも)」ととぼけて会場の笑いを誘っていました)。
私は新作「つくる」はこれまでの村上長編でもっともジョークの少ない作品だと思っています。どうしてそうなのかを湯川さんから訊いてほしかったんですが、湯川さんは笑えるところが多いと思ってたんだ・・・
自分の作品を読んで泣くことはない。例外は「アンダーグラウンド」。20代の(サリン事件の)被害者の奥さんにインタビューをした。その間は3時間明るい感じでお話を伺ったが、その後帰りの電車の中で1時間泣いた。その気持ちは、別の小説を書いているときによみがえってくることがある。
仕事中は、真剣には聞いていないがいつも音楽をかけている。励ましてくれているように感じている。仕事中はLPしかかけない。CDはかけない。LPの音のほうが良いから。
小学3年生まではほとんど本を読まなかった。4年生から急に読むようになった。自転車で西宮市立図書館に行って、子どもの本にある棚はすべて読んで、次は大人の棚に移った。中学生からは19世紀の小説にのめり込んだ。日本の小説は、親が国文学の先生だったこともあって逃げ回っていた。読み出したのは大学に入ってから、いわゆる「第三の新人」の作品。吉行(淳之介)、安岡章太郎。谷崎(潤一郎)、漱石。文章のうまい人が好き。
そういえば春樹さんの若い読者のための短編小説案内 (文春文庫)が未読だ・・・吉行淳之介と安岡章太郎がこの本で取り上げられていますね。あと、西宮市民としては、春樹さんの肉声で西宮市立図書館ってことばが聴けてうれしかった。現存しない旧図書館(リンク先サイト「村上春樹の西宮芦屋を行く」)のことですね。この図書館にあったステンドグラスは現在の西宮市立図書館のいくつかの館に分散して飾られています。
(一般からの事前質問(1,500通集まったらしい)「一番おいしいビールはなんですか?」に対して)喉が渇いている時のビールでしょう・・・(笑)最近飲んだ中では、ハワイ・マウイブルーイングのBig Swell。私はビールは瓶派なんですが、これは缶しかない。その缶には、ビールには瓶より缶のほうがどれだけいいかを詳しく書いてありました。これはうまかったです。
ネットで探したけど通販では欠品中、関西では出してるお店がまだ見つからないです・・・IPAはそんなに好きじゃないんだけど、まずは飲んでみたい。
英語で翻訳された自分の作品はすべて読んでいる。もう原書は忘れてしまっていることもあり、けっこう楽しんで読みます。翻訳しやすい本は、物語の力が強くて、どんどん前に進めるもの。読者も細かいところは読んでいないし。翻訳しにくいのは、描写が繊細な本。「グレート・ギャツビー」なんかはそうだなあ。
小さな国で自分の小説が翻訳されているのはうれしい。アイスランドやフィンランドは数十万人しか人口がない。それに若い人は大抵英語がわかる。それなのに訳してくれている。僕は人にはあまり会わないが、翻訳者には進んで会うようにしている。自分も翻訳するとき、現著者に質問をさせてもらうこともあるし。
(質問「京都で好きなところはどこですか?」粟田口、インクライン、南禅寺のあたり、好きですね。
楽器は、小さい頃ピアノを習っていたが今はやめている。今はレコードを聴いてピアノで和音探しをしている。和音が見つかるとうれしい。
このあたりは、まさに「そうだ、村上さんに聞いてみよう」と世間の人々が村上春樹にとりあえずぶっつける2 (アサヒオリジナル)シリーズの雰囲気でしたね。時には簡潔軽妙に、時には詳しく饒舌に。ああ、あのQ&Aがライブで行われている!と感無量でした。
メッセージ
イベントが終わろうとするとき、春樹さんが最後に話された内容はこうでした。「では最後に・・・僕がほんとに嬉しいのは、僕が本を出すと待っていて買ってくださる方がいること。どんな批評より、どんな数が売れるよりうれしい。時々、今回の本はほんとにつまらなかった、がっかりした、でも次も買います、とおっしゃる方もいる。僕はこういう方が好き。全部好きになってくれる必要はない。つまらないと思っていただいてもかまいません。僕は個人的に、一生懸命、手抜きなしで書いています。他の仕事はせずに、それだけを考えて書いています。村上は一生懸命やってるんだと思ってもらえるとうれしいです。あまり自信はないんですが、一生懸命やっています。」これは、春樹さんの聴衆に向けてのメッセージであり贈り物ですね。一つは読者への感謝。もう一つは、誠実な仕事を続けていくことへのエール。私はそのように感じました。
最後は、河合隼雄財団の代表理事、河合俊雄さんからの挨拶。この前日、春樹さんは河合隼雄さんの仏前でお焼香なさったとのことでした。
春樹さんがどれだけ誠実なプロフェッショナルなのかということを文字通り体感した2時間半でした。本当に幸運で幸福です。
会場を振り返ると、美しく黄昏がかった青空が広がっていました。春樹さんが冒頭おっしゃった「京都の春の午後をゆっくり楽しんでいただければと思います」という言葉を思い出し、おそらく私にとって最高の京都の春の午後が今終わろうとしていることを噛みしめました。