歴史社会学者の小熊英二さんが、自身のお父さん謙二さんにその半生を聞き書きした記録です。
謙二さんは1925年生まれ。戦後シベリアに抑留された後帰国、結核療養所で過ごした後いくつかの職についた後、スポーツ用品販売店を営みます。
老後は環境保全や反戦等の社会運動、特にシベリア抑留者への補償(見舞金)が韓国人兵士(戦争中は日本兵)には出ないことに対する裁判の共同原告になるなどの活動はなさっていますが、それを除けば一般的な「都市下層の商業者」(英二さん自身の表現)です。
これがかなり興味深いのです。シベリア抑留経験がメインの本かと思ったらまったく違っていて、シベリア時代以外も含めた謙二さんの生活の回想と、英二さんによる当時の日本社会についての客観的な補足・解説(実の親に対してもそのスタンスが変わらないところがさすがというかまあ英二さんなら当然、というべきか)が絶妙なコンビネーションになっています。
英二さん自身、この聞き書きの価値のひとつに、本来記録を残さない社会階層の人の記録であることを挙げていますが、それがよく実感できます。社会的に財を成した人や学者へのインタビュー・自伝とはかなり異なった市井の人の感覚に膝を打ちますし、今まで他の歴史本で読んだことのない内容がたくさんでした。そのうちの一部を列挙します。
戦争
- 1937年の終わりにタクシーを見かけなくなったのが最初の変化(1938年には国家総動員法施行、ガソリンは配給制に)
- 1年ごとにスローガンが増え、1939年頃からどんどん空気が変わっていった。
- しかし、(謙二さんが通っていた)旧制中学の内部には自由な雰囲気が残っていた。乃木大将を間接的に批判する国語教師などがいた。
- (英二さんの解説)当時の新聞も、迎合的記事だけを載せていたわけではなく、1944年2月の毎日新聞は「勝利か滅亡か」「竹槍では間に合はぬ」という記事を一面トップに載せた。が、執筆記者は懲罰的な徴兵を受けることになった。
- (当時毎日新聞を購読していた謙二さんのコメント)「読んだかもしれないが、当時は食うものを調達するのに精一杯で、余裕が全然なかった。間接的な表現を理解する知識もなかった。」
このあたりの変化は、先日アップした半藤一利さんの「昭和史」のまとめと比較してみて興味深く感じました。半藤さんの記述より「空気が変わる」タイミングが遅いように感じますが、これは当時謙二さんが少年~青年で実体験した記憶と、半藤さんが謙二さんより5歳年下で「昭和史」を主にご自身が成人してからの研究成果に基づき執筆されたことの違いかもしれません。
- 入隊後、日本軍の暴力と「形式主義」が印象に残った。「軍人勅諭」などを暗記させられる。一字一句原文通りに言えないといけないが、内容を理解しているかどうかは問題にされない。書類も、上に報告している「員数」にはうるさく、備品が足りなくなったら他の中隊から盗んできて「員数」を揃えるので、盗みがとにかく多かった」
「動員数」だけをそろえて実数がない、というのは以下の本でも日本の敗因として挙げていたことを思い出しました。
- ポツダム宣言を読んで、日清戦争の前の領土は残してくれるんだ、それで勘弁してくれるんだ、と思った。
この感覚はすごく共感できますが、そういえばあまりこういうコメントって読んだことなかったな、と思いました。
シベリア抑留
- 日本との違い:ソ連軍は、任務を離れたプライベートな関係のときは、将校と兵士が気楽に話し合っている。・・・上官は暴力をふるわないし、理由がちゃんとあれば兵士が抗弁することもできる。
- 最初の冬は屋外作業で凍傷が続出した。しかし二度目の冬には、零下35度以下だった場合は屋外作業中止になった。「おそらくロシア人は、日本兵がこんなに寒さに弱くて、犠牲者が続出するとは、思っていなかったのだろう。」
いわゆる欧米の合理主義はアングロサクソンのものだと勝手に思っていましたが、ロシア人も当時の日本より合理的な感じがします。とはいえ・・・
- (英二さんコメント)このような劣悪な待遇は、捕虜の意欲と労働効率を低める結果になった。ソ連内務省の予算収支によると、1946年度には3300万ルーブルの赤字だった。
収容所なんて人件費はゼロに近いだろうし、食事も住居もお粗末きわまりない「低コスト環境」でも、モチベーションが低ければ赤字になるんだ・・・いや勉強になりました・・・
なお、1947年以降は、悪名高いソ連収容所における思想改造のための「反動摘発」(吊し上げ)が行われており、その内容も記載されているのですが、ここは興味深いとはいえ他の本でも読んだことのある内容なので割愛します。
帰国・結核療養
- 1948年夏帰国。「日本が見えたときは、うれしかったが、景色は箱庭みたいに見えた。大陸の風景と違って、ちまちましていた」
まあそうでしょうね・・・私は日本の緻密な風景も好きですが、人と建物がほとんどないシベリアから帰ってきたらそう感じるのはむしろ自然でしょう。
その後謙二さんは結核になり結核療養所で数年を過ごすのですが(肺の一部をつぶす手術もしています)、この時期が一番つらい時期で、シベリア抑留以上だったそうです。
これが個人的には一番衝撃でした。多くの人が亡くなったあのシベリア抑留よりも、日本の療養所のほうがつらいとは・・・本書を読んでいてもそのつらさはリアルには想像できないのですが(私は幸い長期入院経験がありません)、これは経験してみないとわからないことなのでしょうね。個人的な話で恐縮ですが、父が最近1ヶ月ほど入院したとき「ここから出られるなら何でもやる」と言っていたことを思い出しました(その後退院しております)。
戦後補償裁判
- 1988年、ソ連抑留者に対して、日本政府が「慰労金」を出すことになった。内容は国債10万円分と記念品等。
- なぜ「補償」ではなく「慰労金」なのか:戦後の日本政府の考えは、戦争の被害は「国民がひとしく受忍」するべきもので、特定の被害者に補償はできないというもの。強い要求があった場合は、「慰労」「見舞い」(従軍慰安婦)「医療援助」(原爆被爆者)であれば行う。
- ちなみに軍人には恩給というかたちの「補償」があり、大将なら年800万円。しかし年金と同じで、一定期間軍人であることが必要なので、終戦間際に兵士になった場合はもらえない。
- 軍人恩給支出は2014年は4271億円だったが、1988年には1兆7166億円だった。
- 謙二さんも含め、シベリア抑留者は恩給がもらえない人が多いので「慰労金」が出たという背景もある。
しかし10万円って・・・そして階級による恩給差もかなりのものですね。サラリーマンの厚生年金も現役時代の給与に連動するのでそれと同じではあるのですが。
謙二さんはこれをどう感じたのでしょうか。
- 「高級軍人には恩給を出しておきながら、俺たちには10万円の国債と、銀の杯をくれるという。・・・こんなものごまかしだ、と思った。金額がわずかでも、敗戦直後ならありがたかったろうし、国も大変なのによく出したと感謝したろう。しかしいまさら金なぞいるか、意地でもいらない、と思った。」
しかし、謙二さんは1990年にこの慰労金を請求しました。理由は「同じ収容所にいた朝鮮系中国人の元日本兵に請求資格がないことを知り、彼と分けあおうと考えたからだった」
この謙二さんの思いと取り組みも、本書の読みどころのひとつなのですが、これは箇条書きなどにまとめるのに適さないと思いますので、ぜひ本書をお読みいただければと思います。
その他
- 「(1960年前後は)一般には、そんなにがつがつ夜遅くまで働かなかった・・・大企業の労働時間が伸びたのは、1970年代の後半からだと思う。自分も・・・午後6時半か7時には帰宅していた」
- (英二さんコメント)江戸時代の農民は10~13時間働いていたが、薩摩藩庁の武士の勤務時間は3時間ほど。廃藩置県後の官庁は1日6時間勤務で、1886年に8時間制が採用されたあとも夏期の午後は休みだった。
それがどういう経緯で今のような長時間労働になったのか興味あります・・・
- (英二さんコメント)(謙二さんの)結婚式は無宗教。公共結婚施設での無宗教結婚式は、敗戦後には一時期盛んだった。もともと日本における結婚は、両家が会合を開くだけで、宗教儀式はない。神道式の神前結婚式は、1900年に当時の皇太子(のちの大正天皇)が結婚した際、宗教儀式として「創出」されたものが起源。
これもかなり意外でした。
小熊英二さんが、自身のお父様に聞き書きするという企画をよく思いついてくださったものだと感心し、感謝します。たしかに、他にない視点と内容に満ちた記録でした。
関連メモ
私も自分の祖父母にインタビューしてみたことがあります。