その1「戦後日本社会の転換点と『1975年体制』」に引き続き、この本で特に印象深く感じたふたつの点についてメモします。
日本のナショナリズム
まず、ナショナリズムがなぜ人を引きつけるのかという根本的な疑問について。いや、私自身もなんとなくその「魅力」はわかるんですが、うまく言語化できないのです。それを小熊さんはさらりとわかりやすく書いていました。要は、人が「差をつけて評価されたい」という気持ちと「同じでないと排除されそうで不安」という両方の気持ちを両立させる回路がナショナリズムだというのです。たしかに、「他の国とは違う」という個性と「国民の一人」という安心の両方が手に入る考え方ですね。
さてそのナショナリズム、日本の場合はどんな特色があるのでしょう。これについての小熊さんの意見は以下のとおりシビアです。
日本のナショナリストはかわいそう。掲げる理念がないから。たいていの近代国家は建国の理念を持っている。フランスなら自由・平等・友愛、アメリカなら独立宣言。元植民地だった国もどういう国をつくっていくかを憲法に書いた。しかし日本の保守派に建国の理念を憲法草案や教育基本法案に書いてくださいといっても材料が何もない。だから、家族とか伝統とか公益とかしか書けない。でも日本でいう「公的秩序」は「お上の言うことにしたがいなさい」というだけ。(よしてるによる要約)
ナショナリストの方がこの意見についてどう感じるかはわかりませんが、彼らの「自主憲法を持ちたい」という思いは「理念を確立したい」という気持ちにもつながっているのかなと感じました。
また、ナショナリズムからくるこだわりについて、沖縄ナショナリズムを例にこんな考え方も語られていました: 伝統文化へのこだわりについて、文化の保存は悪いことではないけれど、それだけにこだわると「もう文化は失われてきているから自立は無理だ」といった敗北感が生まれたり、新しい文化創造の試みに対して「こんなものは沖縄文化じゃない」といった抑圧的な姿勢につながりかねない、との指摘。たしかにそうかも。こだわりそのものを目的にすると本来の目的を見失うということは、他の分野でもありそうな話です。
あと、ナショナリズムとグローバル化との関係について。私はこれまで両者を対立する概念ととらえていましたが、小熊さんの考えではこれらは「仲の悪い双子」なのだそうです。なぜか。まず、ナショナリズムとグローバル化は、両方とも、交通通信技術に基づく均質化と資本主義化の産物という点で共通。均質化が国内でなされる(薩摩の武士も水戸の農民も「日本人」とする)とナショナリズム、国際的になされるとグローバル化というわけです。でももちろん対立する要素もあって、そのひとつが国家関係。ナショナリズムは、大国のグローバルな展開に劣位の国が対抗手段として持ち出されることが多いとのこと。なるほど。要素その2は利益を得る層の違い。ナショナリズムは国内を均質化→身分制廃止や格差の解消につながるので経済力でいうと中の下くらいの階層が受益者。一方グローバル化の受益者は上層。私にとってはこの視点は新鮮でした。一見対立するものは、実は根っこでつながっているものなのかもしれません。
若者の生きづらさ
二つ目の「現代日本の若者の生きづらさ」について。小熊さんの視点は基本冷徹、シビア、リアリスト的ですが、ただそれだけじゃないと感じたのがこれらの言説です。
その1でメモした、日本も突入したと言われる「脱工業化」の段階。日本より先にこの段階に入った国で問題になったのは、若年失業が増える→治安の悪化と麻薬の流行が起きるということなのだそうです。そこで小熊さんは言います。「ここで官僚や政治家に考えていただきたい。治安が悪化した後警察に多大の予算を投入するのと、いまのうちにプレカリアート労組に補助金を出すのでは、どちらが長期的に見て低コストか?いうまでもないでしょう。」若者の働く場の改善が必要であることを、コスト面から、つまり行政に受け入れられやすい論理で語っています。
一方で、若者への檄も飛ばします。「私は、日本の若者は日本の政府や財界になめられていると思います。彼らは、外国人労働者を入れたら治安が悪化したり、ストや暴動が起きるかもしれないけど、日本の若者を低賃金で酷使しても、リストカットしたり鬱病になったりするくらいだと思っているんじゃないでしょうか。」そうかもしれません。そして、個人的には、若者だけでなく日本国民全体が政府に軽く見られている要素は昔からあると思っています。一つの例が、第二次世界大戦時、ドイツですら敗戦の直前まで国民に生活水準の維持に務めていたが日本はもっと早い段階でそれを弱めたというケースです(参考:吉田裕「アジア・太平洋戦争」)
続いて、大人からの若者への厳しい視線にはわけがあることも示します。
ニートもフリーターも引きこもりも、「怠けているだらしない若者」として同列にされている。これはいまの「大人たち」が、自分の規範に反している若者を、そうした言葉で非難しているということ。こうした非難は、彼らの恐怖の表れだともいえる。今の40〜60代の多くは、会社で残業に次ぐ残業で働き、家には寝に帰るだけという生活を数十年も送ってきた。それでも彼らががまんしていたのは、「まともな人間は学校で勉強しているか、会社で働いているはずで、それ以外の人間はクズだ」という規範を信じ、「自分はクズになりたくない」と思っていたから。なので学校にも会社にも行っていない若者が出てきたら、「クズを甘やかすな」か「かわいそうなニートと引きこもりをきちんと直してあげよう」と憂いてみせるかしなければ、彼らの信念体系が崩れてしまうという恐怖がある。(よしてるによる要約)
これも、他の分野に応用できそうです。厳しい非難が寄せられる場合は、実は「相手の信念体系を崩そうとする」言動を自分や所属コミュニティが行っている、というパターン。もちろんそれだけではないでしょうが(例えば自分に全面的に非がある場合など)、そういう事態に陥ったとき思い出したい視点です。
最後は、リアリストにしては意外な感じのする言葉ながら、結局小熊さんがあれだけの研究を続けている原動力はこのあたりにあるのかなと思わせる言葉でこのメモを終わりにしたいと思います。
落語の世界に出てくるレギュラーメンバーなんて、近代的価値基準からすればカスみたいな連中ばかり(笑)。究極的に無価値なのは与太郎。働かないし何をやっても失敗する・・・でも与太郎は、自分の存在価値についてなんて悩んでない(笑)誰だって、ただ生きてるだけで無価値じゃないんです。