庭を歩いてメモをとる

おもしろいことや気になることのメモをとっています。

吉田裕「アジア・太平洋戦争」

アジア・太平洋戦争―シリーズ日本近現代史〈6〉 (岩波新書)


先日のメモでも取り上げた本ですが、先日のテーマ「日本はなぜ真珠湾攻撃を行ったのか」からははずれるけど興味深かった部分をメモ。


戦時下の国民生活の窮乏度

枢軸国はどこも窮乏していたと思っていたのですが、ドイツと日本ではかなり事情が違っていたようです。

ドイツの場合、政府が生活必要物資の確保を重視し、時には軍需をある程度、犠牲にしても、国民の生活水準の維持に努めようとした。このため、個人消費支出は、43年の時点でも、第二次世界大戦開戦時(1939年)の8割の水準を維持していたし、戦争末期の44年の時点でも、世界恐慌によって個人消費支出が最も低下した32,33年の水準をやや上回っていた。

ヨーロッパでは、日本に比べ「国民にひどい暮らしをさせると革命が起こる」みたいな怖れが支配者層にあったのかな?なんて勘ぐってしまいます。


日本兵の意識の変化

最初の「玉砕」であるアッツ島の場合は、捕虜となった日本兵は29名で、これは全兵力の1%強に過ぎない。これに対してサイパン戦の場合は、全兵力の約5%が捕虜となった。

投降が禁じられていた中でも、戦況の変化によって兵の心理にも確実に変化が起きていたのですね。個人的には、日本兵は最後まで「生きて虜囚の辱めを受けず」を貫徹していたのかと思っていたので、意外に思いました。


戦争と女性の社会的地位

男性労働者を兵隊にとられたことで起こった深刻な労働力不足は、ご存じの通り多数の女性労働者を生み出しています。

製造業における女性労働者の数は、30年10月時点で144万1000人、それが44年2月には、220万2000人にまで増大している。・・・当時、中流以上の家庭の娘は、高等女学校卒業後、家にあって家業や家事を手伝い、裁縫や料理などの「花嫁修業」をしながら結婚を待つのが一般的だった。・・・戦局の悪化にともなう未婚女性の工場への勤労動員は、こうした伝統的な労働観に変容をせまるものとなり、学校を卒業した女性が結婚までの一定期間、職につくという新たな慣行を定着させる契機になったと考えられる。

戦争による価値観の変化はいろんな面で起こったと思うのですが、戦後の女性の地位向上につながるような変化があったとは知りませんでした。


捕虜の死亡率

アメリカの民間抑留者団体の調査によれば、第二次世界大戦中にドイツ軍の捕虜となったアメリカ兵は9万6614名、捕虜期間中の死亡者数は1121名で、死亡率は1.2%である。これに対して、日本軍の捕虜となったアメリカ兵は3万3587名、死亡者数は1万2526名で、死亡率は37.3%にも達する。

映画「大脱走」を観て(別にドキュメンタリーじゃないので事実にどこまで沿っているかは別としても)、あのドイツのアメリカ兵捕虜収容所の待遇のよさを見て「日本じゃありえない」と思っていたのですが、あながち見当違いでもなかったようですね。


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