ルワンダの死亡率は、ホロコースト中のユダヤ人のほぼ3倍に達する。これは広島と長崎への原爆投下以降、もっとも効率的な大量虐殺だった。
映画「ホテル・ルワンダ」を観て、なんで同じ国の人同士でこんな虐殺が起こってしまったのかが気になったので、読んでみました。
一般的に言われるのは、かつてルワンダを支配したベルギーが、それまであいまいだったフツ族とツチ族の区別を明確にしたため、多数派被支配層フツ族が少数派支配層ツチ族への怨嗟を積もらせそれが爆発した、というものです。しかし、ことはそんなに単純ではないはず。
この本によれば、どうも起源の一つは19世紀後半にあるようです。イギリス人ジョン・ハニング・スピークは、ナイル川の源流のひとつヴィクトリア湖を「発見」した人物ですが、想像に基づくこんな説も披露しています。曰く、旧約聖書にある、ノアが「しもべらのしもべとなりてその兄弟に仕えん」と呪った息子ハムの末裔こそ黒人である、なぜなら周囲が発展しても黒人社会は発展に取り残されたままだからだ、そして一方で、中央アフリカにおけるすべての文化と文明は、コーカソイドの末裔でエチオピアからやってきた、黒人の中でも背と鼻が高く浅黒いやせ型の人種によってもたらされた、というのです。そして、哀れな黒人を救うには、このやせ型の人種を教育し導き手とすることが必要だ、と。
この説は、唱えられてから以下の流れで1994年の虐殺へつながっていきます。
・一般的に、フツ族は農夫でツチ族は牧夫だった。農作物より家畜の方が資産価値が高いので、ツチ族は政治的・経済的エリートの代名詞となった。また、ツチ族は「背と鼻が高く浅黒いやせ型の人種」だった。
・1895年、ツチ族の王ルワブギリが死去したことで政治的混乱が起こったところ、ドイツがそこに介入し、ドイツ→ツチ族→フツ族という支配体制を築いた。
・第一次世界大戦でドイツが負け、国際連盟がルワンダをベルギーに渡したときは、フツ族とツチ族ははっきり対立するアイデンティティになっていた。
・ベルギーはカトリック教会とともに、フツ族から公民権を剥奪しツチ族による支配の強化につとめた。既存の王を廃し、従順な王を擁立した結果、この王はカトリックに改宗し、結果ルワンダをアフリカ一カトリックが盛んな国にした。
・1933年〜34年、ベルギーはすべてのルワンダ人をフツ族(85%)、ツチ族(14%)、トゥワ族(1%)に分類し、IDカードを発行した。それまで区別が曖昧だった民族区分が明確で変更不可能なものになった。
・実は、ベルギー自体にも、フランス語系の少数派ワロン人が多数派フラマン人を支配していた時期があった。第二次世界大戦後ルワンダにやってきたフラマン人の牧師はフツ族に感情移入し、政治的変革の意思を高めようとした。
・1957年、フツ族知識人層が「フツ宣言」を発表した。これは、スピークの人種理論をいわば肯定しつつ、「ツチ族が外からやってきたのなら、ルワンダはもともとフツ族のものだ」というものだった。
・1959年、ツチ族の活動家がフツ族の活動家を襲った。これが人種間の組織的暴力の最初だった。フツ族の活動家は負傷しただけだったが、「殺された」という誤報が広まった。
・24時間以内にフツ族はツチ族の政府系機関や家を破壊するなどの暴動が起こり、ルワンダ全土に広まった。
・3日後、ベルギー軍大佐ギィ・ロジストが事態収拾のためルワンダにやってきたが、ロジストは「人々に自尊心を取り戻させたい」「不公平な貴族制の不正を暴き、傲慢な人々をひきずりおろしたい」という理由でフツ族を止めず、ツチ族を救出しなかった。
・1960年には選挙が実施されたが、投票所の前にはフツ族が陣取っており、結果的にポストの9割がフツ族で占められた。
・その後は国外逃亡したツチ族の襲撃とその応酬としての国内フツ族による国内ツチ族への襲撃が続く。1963年、南部のギゴンゴロ州だけで1万4000人のツチ族が虐殺された。1964年までに国外に逃亡したツチ族は25万人に達した。
・1973年の虐殺後、ハビャリマナが第二共和制を宣言し大統領となった。ハビャリマナはツチ族への攻撃をやめさせたが、差別体制は残した。その全体主義政治が援助元である西側諸国に批判されたため、1990年、複数政党制を導入した。
・一方、1987年、ハビャリマナ政権を批判する新聞が人気を得始めたため、ハビャリマナ大統領夫人が中心となってライバル紙を発行した。ライバル紙創刊メンバーに依頼され政権批判紙から移ったハッサン・ンゲゼは、フツ族至上主義を掲げ、1990年には「フツ族の十戒」を提唱した。ここではフツ族は共通の敵ツチ族に対して団結すべきで、フツ族を批判するフツ族は裏切り者とされた。この「十戒」は広く人口に膾炙した。
・1992年、国営のラジオ・ルワンダがツチ族によるフツ族虐殺計画を「発見」したと報じた。これは誤報だったが、民兵組織はツチ族の虐殺を始めた。10月、フツ族至上主義者は「ツチ族をエチオピアへ送り返してやれ」と演説した。スピークの人種理論はここでもまだ生きていた。
・1994年4月6日、ハビャリマナ大統領の乗った飛行機が撃ち落とされ、大統領は死亡した。ラジオはこれをルワンダ愛国戦線(ツチ族国外亡命者の反政府軍)と国連ルワンダ支援団によるものと報道、これがきっかけでフツ族によるツチ族及びフツ族穏健派への大虐殺が始まった。
これ以降に起こったことは「ホテル・ルワンダ」に描かれている通りです(本書には主人公ポール・ルセサバギナも登場します)。映画からは急に大虐殺が起こったような印象を受けていましたが、実際はこのような100年以上にわたるいろんな要因の積み重ねて起こった出来事なんですね。
しかし、利用されただけとはいえ、元をたどると聖書に行き着いてしまうところに「またかよ」感がぬぐえません。聖書そのものの価値はさておき、古今の様々な悲劇のきっかけに利用されることが多い本なんだなと改めて思いました。
(下巻については10月19日のメモに書きました)