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デイヴィッド・プロッツ「ジーニアス・ファクトリー ノーベル賞受賞者精子バンクの奇妙な物語」

ジーニアス・ファクトリー

「氏より育ち」とはよくいいますが、本当にそうなのか。これまでここで取り上げたシンガポールの政策や「ヤバい経済学」のメモからは、「育ちより氏」の側面が強調されていたようにも感じます。もうちょっとこのことを掘り下げて知りたいなと思っていたところ見つけたのがこの本です。

この本から知ったことは大きくふたつあります。ひとつは、「ノーベル賞受賞者精子バンク」の実態、もうひとつはアメリカにおける優生学のあゆみと、それを体現したかのようなある博士の存在です。


1.ノーベル賞受賞者精子バンク

この精子バンクは、実業家ロバート・グラハムが自らの財をつぎ込んで1980年に設立しました。彼は、「行き届いた福祉制度のせいで無能な人間も子孫を残せるようになった現代、優秀な人間を残すためにはこういった仕組みが必要だ」と考えていました。なので、この精子バンクは他と違って、精子を提供する側もされる側も無料でした。

で、この精子バンクはその後どうなったのか?まず、この本で語られているのは、このバンクのいい加減さです。バンクでは、精子提供者(ドナー)に詳細なプロフィールを求めますが、裏付けはとっていませんでした。あるドナーのプロフィールにはIQが160とありましたが、そのドナーを探し出してインタビューしたところ「知能テストは受けたこともありません。相手が喜びそうな数字を言ったまでです。」「とにかく子供がたくさん欲しかったんです。」とのことでした(この人物は他に2つのバンクに精子を提供していた上、実生活でも多くの女性との間に子供をつくっていたそうです)。また、バンクのスタッフも鷹揚というかいい加減というか、実際には禁じられているドナーと顧客家族の間を取り持ったりをしています。このバンクについては、創立者の熱意は「本物」だったかもしれませんが、それは細部にまでは行き届いていなかったようです。

しかも、グラハムは途中でノーベル賞受賞者の精子を集めることをあきらめ(結局、ノーベル賞受賞者の精子から子供が生まれることはなかった)、スマートで若く、スポーツが得意でハンサムな人物の精子を集めるようになります。これは、母親が必ずしも突出した頭脳だけを求めているのではなく、バランスのとれた子を欲しがったからではないか、と著者は推測しています。つまりグラハムは顧客の要望に合わせて「柔軟に」対応していたわけです。また顧客女性は、ドナーの容姿を気にしており、特に身長は必ず聞いていたようです(背の低いドナーの精子は引き取り手がなかった)。

さて、このバンクから天才は生まれたのでしょうか?このバンクからは217人の子供が生まれており、著者はそのうち30人と知り合いになりましたが、その上での感想として、「全体的には確かに平均以上だが、個人差が大きい」と語っています。そしてそれが遺伝のおかげなのかというと、それは疑わしいとしています。要は、このバンクを利用した女性はみなスーパーキッズを欲しがるような教育熱心な母親なので、優秀な子供が育ったとしてもそれは環境のためなのではないか、とのことです。

ただ、血のつながりを感じさせる例は挙げられています。例えば、あるドナーとその子供との共通点として、
・子はピアノを弾き、ドナーの母はプロのピアニストだった
・子は海洋生物学者を夢見ており、ドナーの父と祖父は高名な海洋生物学者だった
・子はチェス好きで、ドナーもそうだった
・子はドイツの作曲家よりロシアの作曲家(ラフマニノフなど)の作品を好み、ドナーも同じだった
・外見がそっくり
などの点が挙げられています。一度も会ったことがなくても、ここまで似るもんなんですね・・・

このバンクは、創立者グラハムの死去後、跡を継いだ人物が急逝したため1999年に閉鎖されました。


2.アメリカにおける優生学のあゆみ

この本には、この精子バンクだけではなく、そういうものが作られるに至った背景についても書かれています。それによると、アメリカでは思ったより優生学がさかんだったようです。

もともと「優生学」という言葉をつくったのはダーウィンの従兄弟フランシス・ゴールトンですが、その「理論」を実践したのはアメリカでした。20世紀初頭の人種的不安と優生学は瞬く間に結びつき、1907年にはインディアナ州で知的障害者に強制断種手術を施す法律が可決され、1930年代には過半数の州で「不適格者」への断種が義務づけられるようになってしまいます。1960年代までに約6万人の体にメスが入れられたとのこと。以前書いたマーサズヴィンヤード島の住民に関するグラハム・ベルの見解もこの流れに位置するものかもしれませんね。

こうした「消極的優生学(不適格者を減らす)」の一方で、「積極的優生学(優秀な人材を残す)」も盛んになり、その流れの中で生まれたのがこのノーベル賞受賞者精子バンクだったというわけです。

ところで、このようなおぞましい流れを体現したかのような人物がいます。ウィリアム・ショックリー。トランジスタの発明でノーベル賞を受賞した人物です。

彼はたしかにとびきり優秀でしたが、人の気持ちを理解することについては優秀とは言えなかったようです。トランジスタを発明したものの、その発明の対価が勤務先(ベル研究所)に帰属することを知って独立。若く優秀な人物、例えばロバート・ノイス(インテルの創始者)、ゴードン・ムーア(「ムーアの法則」の提唱者)などを引き入れます。ここまではよかったのですが、新しい会社では「風通しのよさ」を勘違いして従業員の給与明細を張り出したり、社内の序列をなくそうという一方で独裁制をひいたりしました。そんな彼から人材は離れていきました。

そんな中、彼は次第に自らの考えを公にするようになります。「米国の黒人は白人より知能指数が平均で12ポイント低く、これは遺伝的な問題だから社会福祉や教育では矯正できない」「ナチス政権下では(断種が行われたので)遺伝病のかなりの減少があったのだろう」など。彼がグラハムの精子バンクに喜んで精子を提供したのもわかる気がします。

いずれにしても、ショックリーは「優秀だけど人間性の根本のところに相当問題がある人」の極端な例、という気がします。


3.下世話ながらも

私個人は、人間は環境の影響を大きく受ける生き物だと常々考えていて、そういう点では「氏より育ち」に近い考えを持っていますが、それでも遺伝による影響に下世話な関心を持つことはあります。それを実感したのが、本書の翻訳者酒井泰介氏の「訳者あとがき」の次の部分を読んだときです。

訳者も、ポール・マッカートニーとキャロル・キングの血を引く子供が生まれたらいったいどんな曲を聴かせてくれるのか、エリック・クラプトンとボニー・レイットの血を引く子供は、両親のコカインへの嗜癖をよそにブルースギターの才能だけを継承できるのか、とタブロイド紙並の無責任で俗な興味が尽きない。

たしかにそれは興味があります。

ところで、坂本美雨って作曲もするんでしたっけ?



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