庭を歩いてメモをとる

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80年代、奈良のゲームセンター(2)大和郡山、奈良他

(2023年8月15日追記)
前回に引き続き、想い出の「80年代・奈良のゲームセンター」について書いていきます。

(前回の記録はこちら)

耳塚菓子店

耳塚菓子店(大和郡山市)1988年撮影

奈良の郡山城の中(といっても公道が通っているので普通に行けます)にある駄菓子屋さん。

通っていた高校のすぐ近くだったので、ときどき寄って、駄菓子とかを買っていました。

そしてゲーム。お店の外にアップライト筐体のゲームがいくつかあったので、サン電子のマーカムを時々やってました。

あと、エレメカの国盗り合戦もありました。
Kunitorigassen「国盗り合戦」Wikipediaから引用


で、なんとこのお店は2021年現在も、当時とほとんど変わらない状況で営業を続けています。ビデオゲームやエレメカは残念ながらもうないのですが。

耳塚菓子店(大和郡山市)2020年撮影

2020年に行ってみたときの店内の写真です(お店のおばちゃんから撮影許可をいただきました)。


三原じゅん子さんのポスターが今も。当時(1980年代後半)はこの人が国会議員になるとは誰も思ってなかったはず。カーレーサーにはなってたけれど。




いろんな時代のポスターが混在。このお店の長いキャリアを物語っているようです。




懐かしの駄菓子が懐かしの入れ物に入って今も売られています。


約30年ぶりにおばちゃんと話をしてみたところ、創業は1963年だそうです。

ローリング・ストーンズがレコードデビューしたのと同じ年から58年間、ストーンズ同様、ずっと現役。まさにRolling stone gathers no mossって感じの駄菓子屋さんです。

最近テレビにも取り上げられたらしく、その話もうれしそうに聞かせてくれました。

おばちゃん、これからも元気で。また行くわ。

※残念ながら、耳塚は市の歴史公園整備に伴い、2023年5月末に閉店しました。郡山城跡一角“子どもの社交場”70年の歴史に幕 駄菓子屋経営・耳塚夫妻「いつも刺激もらった」 大和郡山 /奈良 | 毎日新聞



清食堂

清食堂(大和郡山市)1989年撮影

ここも高校のすぐ近くにあった食堂。高校からスリッパ(上履き)のままここに来る生徒がいて学校側が怒っていたくらい、生徒御用達のお店でした。通称「せいしょく」。

お店を切り盛りしていた兄ちゃんも高校の先輩(野球部のマネージャー)だったと聞いています。

ここの名物は「花そば」「花うどん」。花とは天かすのことで、それがたっぷり。

さらにうどんと中華そばをひと玉ずつ使った「花おおかみ」というのがあり、これはこのお店でしか見たことがありません。これと「ぎょく丼(玉子丼)大」は何度かき込んだことか。

あと、「ウドンゲッティ」という、うどんを使ったスパゲティナポリタンも。食べてみるとまったく違和感のない組み合わせでした。今度の週末、家で作ってみようかな。



1989年2月、平成に入ったばかり。大学入試真っただ中にもかかわらず「せいしょく」で花そばを食べる私と同級生。


テーブルが全部ゲーム機で、アルゴスの戦士、アルカノイド、妖怪道中記、R-Type、ぷよぷよ、熱血硬派くにおくん、熱血高校ドッジボール部、脱衣麻雀(ゲーム名は失念)と、当時の定番が稼働していました。スクランブルフォーメーションもあったな。

特に源平討魔伝は、今でも音楽を聴くと「花おおかみ」の香りがたちこめるような錯覚にとらわれます。パブロフの犬並みの条件付けが30年以上たった今も残っているほどの深い想い出。

そんな大切なお店でしたが、平成に入って数年で食堂からパンなどのテイクアウトのお店に変わってしまいました。そこで「花おおかみ」は幕を閉じました。

2000年にふらりと寄った時はまだ営業されていて、お店の兄ちゃんも私のことを覚えてくれていてうれしく思ったのですが、その後閉店されたようです。寂しいものです。

かつての清食堂(2020年撮影)

PLAYどん

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JR(当時国鉄)郡山駅から西に徒歩3分程度、近鉄郡山駅に抜ける道沿い。砂利の大きめの駐車場がありましたが、自動車が止まっているのを見たことがなかった。

お店の奥にアップライトのフロッガー、タイムパイロット'84など。テーブル筐体はスターフォース、1942、パックランド、グラディウス、バブルボブル、ワンダーボーイ、アテナ、ギャラガ'88など。もっとたくさんのゲームがありましたが、プレイしたのはこんなところかな。1プレイ50円だったのもありがたかった。

85年、中学生のころから自転車で40分かけて行っていました。電車を使えば15分くらいで行けるんですけど、往復の電車賃でゲームが6回くらいできるので、当然自転車。

高校になってからはこの店の前が通学路なので、週に3日は行っていました。結果的に一番お金を使ったゲームセンターだったような気がします。

高3くらいからゲームする頻度が落ちていったので、ギャラガ'88くらいが最後かな。

平成に入るくらいに、たしか小学館ホームパルという学習塾に変わっていました。今は一般民家に変わっているようです。

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ジャスコ郡山

今のイオンモール大和郡山とは別の、近鉄郡山駅の南東にあったジャスコ。今は(たぶん)マンションになっています。

アウトランがあったので、高校の帰りに時々寄りました。100円だったのでたまにしか行かなかったけど。


ヤングストリート

ゲームとは関係ないですが、近鉄郡山駅の東、商店街から南に少し入ったところに、西友のやっているヤングストリートという小さなモールがありました。

若者向けの服や雑貨を扱っていて、高校からの帰宅の途、時々ふらっと寄ってウィンドーショッピングしたりしていました。

こちらも平成に入ってわりとすぐ閉店したような記憶があります。もとは公設市場があった場所だったそうです*1。現在はマンションになっています。



次は奈良市のゲーセンについて。

(当時のことを思い出すのに、ブログ「奈良市内のかつてのゲームセンター(ゲーセン)一覧 : 記憶の奈良」の記事が参考になりました。ありがとうございました。)

ミッキー

JR奈良駅から西に10分ほど歩いた場所、建物の2階にありました。

ここの特徴は、管理人のおばちゃんのいる部屋が広くて、そこでかばんを預かってくれること。これは特に土曜日の午後、学校帰りに重いかばんを持った身にはとても便利だった。

インスタントラーメンのお湯もくれるので、土曜の昼は昼飯代をここでつくったカップヌードルですませ(なので土曜の昼はラーメンのにおいが充満)、浮かせた食費をゲームにまわせたので助かっていたりもしました。そしてお店もゲーム収入が増える共生関係、今でいうWin-Win(大げさ)。

ここも1プレイ50円だったのでわりと通いました。沙羅曼蛇や闘いの挽歌とか。

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/1/1b/Salamander_kyotai1.jpg
沙羅曼蛇の筐体(Wikipediaから引用)。ミッキーにあったのもこんな感じのでした。


ルート3

こちらはJR奈良駅の北東すぐ、駅前広場に面していた場所。

1プレイ100円だったのであまり寄りませんでしたが、ポールポジションIIを時々ここでやったかな。このゲームはどの店でもたいてい100円なので。

今は建物自体がなく、ホテルか何かに建て替わっています。


ダイエー奈良店

JR奈良駅から三条通に入ってすぐ、北側にありました。

ここは階段の踊り場にアップライト筐体があって、クレイジーコングやディグダグがあった記憶があります。1プレイ50円。

こちらのブログ「ダイエー奈良店の閉店?: 鹿鳴人のつぶやき」によると、1971年開店、2005年に閉店したようです。今は建物自体がなくなりドラッグストア「木のうた」になっています。


友楽会館 → シネマデプト有楽

三条通と近鉄奈良駅近くの「小西さくら通り」が交わるあたりにあった映画館。

ここが1990年にシネマコンプレックスに改修。まだシネコンが世の中にそれほどなかった時期で、しかも改修後のデザインが現代的、そしてそもそも奈良には映画館そのものが少なかったので(これは今も)、けっこう話題になりました。

ここの1階にセガの体験ゲーム(アウトランとか)がありました。映画は「バックトゥザフューチャーPart2」をここで観たなあ。

その後、1996年に別館「シネマデプト有楽EAST」ができましたが、そこにもゲームセンターがありました。
Cinema dept Yuraku East
シネマデプト有楽EAST(Wikipediaから引用)

そのころは、奈良で今も営業されているジャンゴレコードが小西さくら通りの町屋にあったし、なんというか奈良のユースカルチャーがこの界隈に狭いながらも集積していた感じでした。

しかし、競合が激しくなったこととシネマデプト有楽の運営会社社長が病気になったことから2010年1月31日をもって閉館*2。社長は、跡地はパチンコ店にはしないように*3とのご意向があったそうで、現在はマンションになっています。

ちなみにこのシネマデプト有楽が閉館したことで、奈良市は県庁所在地で唯一映画館のない市になったとよく言われています。これについては「奈良市と京都府木津川市にまたがるイオンモール高の原には映画館があるが、その映画館の所在地は木津川市」というのが実情のようです*4


一条院

近鉄奈良駅近くのアーケード「東向商店街」にあった、オール100円の、当時の「ゲームセンター」らしいゲームセンター。ずらっとテーブル筐体が並んだ薄暗い場所。

その料金設定のためか、大学生以上の客けっこう多かった気がします。そのせいか前のメモで書いたような治安の危険は感じたことはないです。不潔な感じもなかった。

あまり行きませんでしたが、メトロクロスは最初にここでやった記憶があります。

ブログ「ゲームセンター 一条院 : 記憶の奈良」によると、今はミスタードーナツ奈良東ショップになっているようです。


奈良観光会館

同じく東向商店街にあるこの建物に、小さなゲームコーナーがありました。

当時から古い感じがしていましたが、まだこの会館自体は残ってますね。→店舗紹介

ゲームコーナーはもうありません。ファンタジーゾーンを何度かやりました。


アスカボウル

こちらは近鉄新大宮駅から北へ徒歩10分ちょっと、平城京跡のすぐ脇にあったボウリング場。

50レーンがワンフロアにずらっと並んでいます。私は初めてボウリングを経験したのがここなので、他のボウリング場に行くとなんかせせこましく感じたりしたものです。

ゲーム機も豊富にそろっていて、入口には大型筐体のマシンがたくさん。ここのスペースハリアーは100円でもかなりやりましたね。当時、セガの体感ゲームは200円が標準で100円なら安い方、それ以下の設定はなかった。あと、コナミのRF-2もありました。奈良県で見かけたのはここだけだったと思います。

テーブル筐体も新旧取り混ぜて揃っていました。ガンスモークをはじめてプレイしたのはここだった気がします。

高校の卒業式の日は昭和天皇の大喪の礼の翌日(1989年2月25日)で、まだ大学入試は終わっていませんでしたが、クラスのみんなでここでボウリングをした想い出も。他にも何度か高校時代は友人たちとボウリングをしにいったものです。

そんなふうにゲームファン以外にも親しまれていたこのアスカボウルも、2011年6月30日に閉店してしまいました。現在は自動車販売店になっています。

最終日の貴重な動画がこちらにアップされています。→ ボウリング:さよならアスカボウル【奈良の老舗巨大ボウリングセンター閉店】 - YouTube


キャノンショット

近鉄大和西大寺駅から徒歩7~8分くらいにあったビリヤード+カラオケ+ゲームセンター。

たしか1987年ごろ、高校にいた時、映画「ハスラー2」が公開されるなどしてビリヤードが流行り各地にプールバーが雨後の筍のようにできていたころ、このお店もオープンした記憶があります。

奈良市内には高校生~大学生くらいの年齢層に特化した娯楽施設ってほとんどなかったのですが、ここはその貴重なお店のひとつでした。

個人的にはゲームよりカラオケ・ビリヤードのイメージのほうが強いですが、2000年代に入ってからはゲーム専業に変わっていたようです。

こちらも、2010年6月30日に閉店*5


大阪方面

その他、中高時代は大阪にもゲームをしに出かけました。

JR大和路線沿線に住んでいたので、JR八尾駅近くのショッピングセンター(名前失念。50円のドルアーガの塔が目的だった)、天王寺のアポロビル(現在はタイトーステーションがあります*6)に何度か足を運びましたが、別格だったのは当時ゲーセンが全国一密集していたのではないかといわれていた近畿大学前の通り。

それこそあらゆる店に行ったけど、大学の門に近い「あうとばあん」が台数・時代の幅広さ(当時すでにレトロゲームと言われていた80年代前半以前の作品もたくさん)そして安さ(ワンプレイ10円から)の点からも一番通ったなあ。現在は音ゲー専門店になっている*7みたいですが、他のお店はほぼなくなっているみたいなので、営業されていること自体貴重です。

高2のとき、ここでゲームに熱中しすぎて帰りの電車がなくなり、近鉄の駅で夜を明かしたこともありました・・・


(参考)当時のゲームセンターの空気感も含めた記録ー「ゲームセンタークロニクル」

(2023年8月15日追記)

日本のゲームセンターの歴史を、単なるデータだけではなく当時の「空気感」も含めて網羅的にパッキングしてくれているのが本書「ゲームセンタークロニクル」。

80年代前半、いかにゼビウスが革新的だったかだけでなく(このことだけなら他の多くの本にも書かれているのですが)、多くのゼビウス亜流ゲームが登場しては消え去っていった中スターフォースはその爽快感から一定の支持があったこと、80年代後半にはプレイヤーの腕前が上がったためシューティングゲームの難易度が上がっていき一般プレイヤーとマニアとの乖離が大きくなっていったことなどが記載されているのはその一例です。

他にも、当時のナムコの輝きや、それに比べ精彩を欠いていた(ただしエレベーターアクションは例外)タイトーが86年から復活する流れなども、当時を経験した人間としては我が意を得たり!(大げさ)という感じですが、この「空気感」を記した類書は私の知る限りではありません。

自分が体感した80年代についての記述は懐かしさをもって、それ以外の時代についての記述は興味深いルポルタージュとして読みました。こうした当時を知る人にしか書けない「空気感」を本として残してくださった石井ぜんじさんには感謝したいです。



1960年代の映画館と1980年代のゲームセンター

それにしても、前回含めここに名前を挙げた22のゲームセンターのうち、2021年現在も営業しているのが3つだけ、ゲームが今もプレイできるのは2つだけとは。

これを知って連想したものがあります。映画館です。

かつては、ちょっとした町なら映画館があったものだと聞いています。実際、1960 年には 7,000 館を超えていたものの、1993年には 1,734 館にまで落ち込んでいます*8。30年で約4分の1になったわけです。

ゲームセンターはどうでしょうか。1989年は21,929店だったのが、2017年は4,381店、約30年の間に店舗数がおよそ5分の1になっているそうです*9。映画館に似てますが、より厳しい。

映画館は、その後、約20年後(2015 年には) 3,437 館と、もっとも厳しかった時期の倍まで回復しています。ゲーセンはどうなるのでしょうか。

いずれにしても、30年の時の流れの厳しさを改めて実感せずにはいられないのが現状です。でも、ここに書いた数々のお店で遊んだ想い出は、たぶん死ぬまで消えないでしょう。自分の頭の中に残っていたその想い出のごく一部をここに書いてみた次第です。


前回のメモ

80年代前半、中学時代に遊んだ奈良斑鳩・王寺のゲーセンの想い出。

関連メモ

この頃に熱中していたゲームが、歴史のある大学の国際学会イベントで紹介されていたので息子と観に行った時のこと。「非行の温床」と言われていた場所から生まれたものが国際的な学術研究の対象になったわけです。これも「時代の流れ」。


当時、どれくらいゲームのことばかり考えていたか。それにナムコはどう応えてくれたか。


ナムコのゲームミュージックが当時どれだけ光っていて、どれほどの足跡を残したのかを見事にまとめたこの本について。


私にとってもっとも思い出深い斑鳩町のお店。閉店する前日に家族で行きました。


注釈


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