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野地秩嘉「ビートルズを呼んだ男―伝説の呼び屋・永島達司の生涯」

1998年、妻リンダを失ったポール・マッカートニーは失意のどん底にあり、インタビューなどはすべてシャットアウトという状態でした。しかしそんな中でも「タツのためならいくらでも質問に答えよう」とインタビューにOKが出たタツとはいったいどんな人物なのでしょうか。

この本は、タツこと永島達司の人となりと生涯、戦後日本の「呼び屋」の歴史、そして永島氏の仕事としてもっとも有名なビートルズ日本公演についての丁寧な取材によって編まれています。ポールのファンとしては、他で読めなかった彼の肉声に触れることもできる貴重な情報源でもあります。


永島達司という人物

ポールは永島のことをどう評していたのでしょうか。

日本という国は表面上はすごく近代的になり、西洋文化が入り込んできている。・・・しかし、一皮むくと、日本や日本人の本質というのは昔から少しも変わっていないんじゃないか。人々が自己主張しないで謙虚なこと、自然を愛し、自然と折り合いながら暮らしていること・・・僕にとってのタツは、そんな日本に対する僕の理解と同じなんだよ。タツは背が高い。誰よりも立派な英語を話す。マナーは西洋的だ。でも、彼の本質はサムライのような日本人だよ。芸能界にはワーワーキャーキャーとまるでダンスをするように落ち着きなくしゃべっている人間が多いけれど、タツは必要最小限のことしか話さない。あとはじっと黙ってる。彼みたいな男が本当の日本人だ。

永島は他の同業者(プロモーター)、つまりショウビジネス界で生き残ってきたあくが強い面々からも「約束したことは必ず守る」「嘘をつかない」「ギャラを値切らない」「エリザベス女王みたいな英語をしゃべる」と絶賛されています。ミュージシャンにも彼に惚れ込んだ人は多く、例えばカレン・カーペンターは永島に日本語で「だーいすき」と刺繍した壁掛けを贈っていますし、ナット・キング・コールとは親友の間柄。そんな人物は、次のような生い立ちを経ていました。

彼は1926年横浜生まれ。三菱銀行に勤務する父の忠雄の赴任に伴い、2歳でニューヨーク、4歳でロンドン、8歳で日本に帰国するも12歳のときには再びニューヨークへ。彼の流暢で美しい英語はこの時に身についたものです。そして、一家が暮らしたニューヨークのウェストチェスターは高級住宅街で、中学生の永島は日本人であっても表面上は差別されたりいじめられたりしたことはなかったようです(ただし、忠雄が入会しようとしたゴルフクラブでは、黒人・ユダヤ人・中国人の知り合いがいると入会できない規則があるなどの差別はありました)。そこで彼はグレン・ミラー・オーケストラやベニー・グッドマン、アーティー・ショー、トミー・ドーシー楽団などの音楽と、ネイサンズのホットドッグなどのジャンクフードのとりこになります。

1941年8月、太平洋戦争開戦の4ヶ月前に15歳の永島は帰国。戦後、アメリカ兵の間で英語力が評判になり基地のクラブ(食べ物、新聞、音楽など、そこに行けば「アメリカ」がある、というような場所)のフロアマネージャーに。そこから日本人ジャズシンガーのマネジメントを行い(その内の一人ナンシー梅木はその後アメリカに渡り映画界でも成功、アカデミー助演女優賞を受賞します)、1957年には協同企画(現在のキョードー東京)を設立、外国人ミュージシャンの招聘に軸足を移していくことになります。その後は次々と海外の大物を日本に招くようになり、この業界の第一人者としての立場を確立するも、本人は表舞台に出ることなくミュージシャンのもてなしに徹していたようです。

彼の仕事の中でも、もっとも有名なものはやはりザ・ビートルズ日本公演の実現です。それは、どんな経緯で決まったものなのでしょうか。


ビートルズ来日

1966年、警備員3,000人、テレビ視聴率56.5%と社会現象になったビートルズ来日。永島の仕事としても最も有名なこの公演は、実はかなりあっさりと決まったものでした。発端は、永島のロンドン時代の小学校同窓生、ビック・ルイスからの電話でした。彼はビートルズのマネジメント会社NEMSの取締役で、コンサートツアーの日程を組む担当だったのです。彼は未経験の日本での仕事にあたって永島の評判を聞き、彼を指名したそうです。

当初躊躇していた永島もこの仕事を引き受けることを決心しロンドンへ。ビートルズのマネージャー、ブライアン・エプスタインとの間でギャラ・会場・入場料などの契約状況があっという間に決まります。このように、ビートルズサイドとの関係構築は順調でした。

しかし、日本では読売新聞社主の正力松太郎が「(ビートルズの公演は)武道館の精神に反する」などと発言したり、ファンの熱狂状態を知った警察による警備も空前の規模となるなど、日本サイドはかなり混乱していました。本書ではこのあたりの事情も丁寧にレポートされています。

永島が正力に話をしにいったところ、正力は「まことに申し訳ない」と丁寧に対応し、永島をエレベーターホールまで見送ったそうです。読売新聞の企画局長はそれを見て驚き、永島に、正力がエレベーターまで見送るのは大臣クラスの人物だけと説明します。さらに「正力はああ言ってるけれど・・・ビートルズに断られたと言えばそれですむことですよ。」とアドバイスします。世間では騒ぎになったこのエピソードも、実は裏ではあっさりかたがついていたようです。

その他、警察だけでなく消防にも警備の舞台裏について取材していたり、当時のチケットはすべて手動で席番号をナンバリングした上で(10人で1週間以上かかったらしい)、入場税を公演前に納税するため税務署の確認をとったことなども書かれており、当時の「裏方さん」の苦労が偲ばれます。また、当時少年少女だったファンへのインタビューも行っており、ファン目線で来日公演を追体験することもできます。このように、本書はビートルズファンには来日のエピソードを知るためのドキュメンタリーとしても楽しめる本です。

ビートルズ来日関連メモ(個人的な想い出を含みます)


ポールの手紙

永島はその後も、キョードー東京でエルトン・ジョンやマイケル・ジャクソンなどのビッグネームのプロモートに関わり続けますが、同時期に活躍した他の「呼び屋」とは違い、あくまで黒子に徹し続けました。1999年、肺炎で死去。73歳でした。

彼の死に際して、ポール・マッカートニーは永島の妻に次のような手紙を送っています。

私の考えでは、タツ・ナガシマは日本の音楽業界にとってもっとも大切な存在でした。彼は日本の人々に西洋の音楽と音楽家を伝えました。彼以上にそのことに秀でた人間を私は知りません。音楽の世界では彼は日本を代表する外交官だったのです。また、個人としての彼は最高の紳士でした。そして私の家族にとっても素晴らしい友人でした。私と子ども達は私たちの大切なタツが亡くなったことを聴いて悲しみに沈んでいます。けれども私たちにはタツと楽しい日々を過ごした思い出があります。ありがとう、タツ。

こんな人物がポールや他のミュージシャン・プロモーターにとっての「日本代表」でよかったと心から思います。実は永島自身も著者に「僕は海外の人に会うときには、自分は日本人の代表だと思っていたんだ。」と語っています。よかったと思うだけでなく、この矜持を受け継いでいくことができればどれほどいいか、とも思います。もちろん永島と同じようにはできないとしても。


追記:ポールファンの方に

この本で知ったポール関係のメモです。ご参考に。

ビートルズ日本公演の際、4人が一番驚いたこと

ポールはこう語ったそうです。

日本に行った僕らが一番驚いたことって何だと思う。四人とも同じことに驚いたんだ。ヒルトンホテルに着いた日のことだ。レコード会社の偉い人が僕らを訊ねてくるというから、ジョンもジョージもリンゴもブライアンもソファに腰かけて待っていた。(中略)心底驚いたのはその時だった。老人の男性が部屋に入ってくるなり、女の子たちは椅子から飛び上がって『さあ、こちらにどうぞ』と言ったきり、座ろうとしない。老人もまたそれが当たり前のような顔をして、腰を下ろした。男尊女卑というのかな?あれを見た時が一番驚いた。日本で僕らが話をしていたのは、女性の地位はいったいどうなっているのかってことだったんだ。

私は逆に、西洋では年齢よりも性別を優先して「マナー」が決まるってことを知りました。でも西洋はたしかにそうかも・・・

MPLオフィスの様子

著者がポールにインタビューした際の記事によると、ポールの部屋は最上階。執務室は20畳ほどの広さ。壁にはデ・クーニングの絵、床にはワーリッツァーのジュークボックス、部屋の真ん中に布張りの応接セット。客に出されるのは日本茶、だそうです。ポール、日本茶が好きなのか、日本人が来たから日本茶を出したのか。著者によれば、ポールは「身体を清浄にする」との思いで日本茶を愛飲しているとのことですが。




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