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自立とは依存先を増やすこと − SOS子どもの村JAPAN広報誌「かぞく」創刊号(2014年)

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(画像は発行元サイトから引用)


きっかけは、次男が生まれたとき、軽い気持ちで始めたことでした。

世の中には、事情で親と暮らせない子どもがいる。そういった子どもたちのために児童養護施設があるけど、育親(里親)と一緒に、つまり家族のいる家でそういう子どもたちを育てているNPOもあるらしい。これはとても大事な取り組みに思えるから、ささやかな額だけど寄付してみようか。次男にも、将来、君が生まれた記念にずっとここに支援してたと伝えたら、喜んでくれる気がする。

そんなふうに特に知識も強い問題意識もないまま支援を始めて約4年。そのNPO、SOS子どもの村JAPANから、この冊子が届きました。

読ませてもらって気づいたことは「頼ることがどれだけ大事か」ということです。


自立は依存の反対語ではない

この冊子で熊谷晋一郎さん(小児科医)は、自立は依存の反対語ではないと述べています。

この方は脳性麻痺の障害があり、東日本大震災が発生したときもエレベーターが止まったので逃げるのが遅れたそうです。避難の手段、つまり依存先がエレベーターしかないからです。

一方、健常者はいろんな手段で逃げることができます。エレベーターの他に、階段、はしご、ロープなど。健常者もこれらの避難手段に依存はしているのですが、依存先が多いため依存していること自体に気づきにくい傾向があります。依存先が増えれば増えるほど個別の依存度合いは薄まり、何にも依存していないように錯覚するわけです。

たしかに我が身を振り返っても、私は毎日の食事すら「自立」して行うことができません。お米ひとつとっても、農家、流通業者、小売店、それぞれの段階で使用する肥料や機械や炊飯器のメーカー、電気などの社会インフラに依存しています。どれかひとつが欠けても、お米を口にすることはとたんに難しくなります。日々どころか瞬間瞬間を何かに依存して生きているのが現状です。

さて、自立というのは、依存先をなくすことではなく依存先を増やすことだ、というのが熊谷さんのお考えです。

熊谷さんは続けます。

社会は相互依存のネットワークですから、適度に支え合いながら生きていくのが自然です。何にも依存しない自立というのはフィクション(虚構)です。そのフィクションに踊らされて、道を誤ることは防ぎたいものです。

参考:熊谷晋一郎インタビュー「自立は、依存先を増やすこと 希望は、絶望を分かち合うこと」

私はこれを読んで、目を開かれた思いでした。そういえばこれは、愛読書である「7つの習慣」(スティーヴン・R・コヴィー)で、自立よりさらに成熟した状態として「相互依存」が提唱されていることともリンクしてるのかも、などと思ったりもしました。


頼ることは、誰にでもできることではない

その依存、あるいは頼ること(両者には相違点もありますが、ここでは共通点に着目します)は実は誰にでもできることではない、ということもこの冊子から学ぶことができました。


ゆずりは(児童養護施設等退所者のアフターケア支援事業)代表・高橋亜美さん

(児童養護施設を出た人たちは、家族とではなく、施設での暮らしが長かったので)人に相談するとか、助けを求めるとか、すごくハードルが高いことなんです。その前提に信頼感がないとダメなので。そもそも人間関係で傷ついている人たちなので、その信頼の土台がないんです。


児童養護施設ではなく里親に育てられた女性でさえも、このような内容を語っていました。

  • 里親に対して日常的に頼ったり甘えたりできたかというと、遠慮してしまってなかなかできなかった
  • 大学進学について考えることを(お金もかかるし一人暮らしも大変だから)、先生や里親に言うことも「甘え」だと思っていたから、誰にも話せなかった
  • それなら勉強ができなくなればいいと勉強するのをやめたら、里親が異変に気づいて気持ちを聞いてくれた

これらの言葉に接して、身近なことで思い当たることがありました。仕事です。私は会社員で、組織で様々な人々と一緒に仕事をしていますが、「うまく頼れない」ケースを時々見かけます。私もやってしまうことがあります。得てしてそれは「責任感」のようなものからきているのですが、本来は「頼らず抱え込んで結局仕事が完遂できない」というケースこそもっとも避けたい、無責任な事態です。

仕事では、積極的に頼りあう−相互依存を積極的に進めていくことが、結局関係者全員にとってよい結果が出ることが多いように思います。社会も同じなのではないでしょうか(それを実現するのはとても難しいことだとは思いますが。)。頼り頼られて生きる。そのことがどれだけ大事なことかわかった気がしてきました。


関連メモ:


里親による子育て

その相互依存の重要性を子どもたちが認識していくには、児童養護施設よりも(児童養護施設も、親と暮らせない子どもたちの受け入れ先として重要な役割を担っていると考えますが)里親による子育てによるほうが、チャンスは多い気がします。

この冊子でも哲学者の鷲田清一さんがこう述べています。

子どもにとっての家族の役割として決定的に大きいのは、他者への信頼の基盤となることだと思います。・・・他者への信頼感を根付かせるためには、一度は無条件に肯定されるという経験が必要なんです。この世の中は、ほとんどが条件付きでないと信頼してもらえないでしょ。でも、親だったら、子どもがかわいくてしかたないし、どんな子であろうと肯定する。そういう「存在の世話」とでもいうべき経験、記憶にない経験が自尊心の基礎を育むわけです。

一方で、子どもに何かあった場合、里親家庭より施設のほうが対応しやすいという面もあります。そういう点でも、小規模な施設で里親が子どもたちを育てているSOS子どもの村JAPANの取り組みは両方のいいところをもっている取り組みのように思っています。

参考:慎泰俊(投資プロフェッショナル兼NPO法人Living in Peace代表理事)親と暮らせない子どもについて知りたい人が、これさえ読めば概要を理解できる記事・・・子どもはどのような過程を経て児童養護施設に行くようになるのか?施設と里親の割合は?施設職員は一人で何人の子どもの世話をしているのか?など、いろんなことがここでわかります。



深い考えもなく(すみません)で続けていた支援ですが、4年目にしてやっといろいろと考えることが増えました。今、頭の中を整理中です。


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