※ 音楽系雑誌・記事ではなく、あくまで「こんなところにポールが?」というちょっと意外な取り上げられ方を対象にしています。
※ 「本・まんがで見つけたポール・マッカートニー」はこちら
週刊新潮 2005年1月27日号「大麻逮捕から25年 ポール・マッカートニー来日秘話」
80年のポール来日・逮捕事件について、当時逮捕・捜査に関わった小林取締官と弁護を担当した松尾弁護士へのインタビューを中心に構成されています。当事者へのインタビューだけあって、さすがに興味深い内容がいくつかありました。
- ポールのことを知らなかったのは当時の(麻薬取締官事務所の)所長だけだった。所長はポール逮捕の重大性がわからず、山梨に出張に行ってしまったが騒ぎに驚いてすぐ帰ってきた。
- 芸能人を逮捕するたびに事務所のまわりに数十人のファンが集まるのが常だった。しかしポールの場合は300人くらい集まった。
- ポールは、特に怯えた様子はなく、相手に嫌われないような表情や仕草を心得ていたようだ。取り調べに対して他人の悪口を言ったりとぼけたりする日本の芸能人とは対照的。
- 逮捕の4日後にはリンダの兄で弁護士のジョン・イーストマンが来日し、コンサート主催者にかなりの補償額を支払った。また、松尾氏は、「麻薬だけはだめだ」という警告をウドー音楽事務所から受けてはいなかったという文書を作成し関係者の署名を集め、捜査当局に提出した。
- ポールにサインをもらった留置係は、その後処分されたらしい。
・・・こんなエピソードの中でも特に興味深かったのは、なぜポールが起訴猶予処分というかなり甘い処分で済んだのかという疑問に対する回答です。松尾弁護士によれば、実はポールは日本に上陸していなかったという理屈なのだそうです。そもそも入国許可が下りていなかった、だから「上陸拒否」扱いで国内法も適用されず、前科もつかなかったということらしいです。
この解釈が通らず、ポールが日本で捕まったままになっていたら、その後どうなっていたのでしょうか。ポールのキャリアには、たくさんの人々のサポートがあって成り立っている部分も多いと思うのですが、これはその最たるもののひとつでしょうね。(2005.1.25)
日本経済新聞 2004年7月13日夕刊「人間発見」
日経夕刊には、各界の重鎮・挑戦者へのインタビューが連載されています。経済界にこだわらずさまざまな分野の話が読めるので個人的に楽しみにしているコーナーなのですが、ここにヤイリギター社長・矢入一男氏が登場。「高品質より生きる道なし」と題し、ギターに使う木は必ず自然乾燥させるため、在庫費用はかかるが5~10年は寝かせるなど、もの造りへのこだわりを語っています。それを評価しヤイリギターを使用しているミュージシャンとして、ポールの名前が出ていました。該当部分を抜粋します。
「・・・海外で最初に愛用してくれたのはクロスビー・スティルス・ナッシュ&ヤングのグラハム。ナッシュとデビッド・クロスビー。・・・リッチー・ブラックモアもファンで、ポール・マッカートニーも十年前から使ってくれている、と聞きました。」
ただこれだけなんですけど、このインタビュー記事の真ん中に大きく「ポール・マッカートニーらも愛用」と書いてあり、突然ポールの名前が目に飛び込んできたのでうれしくてここに書いてしまいました。しかしポールは、どの曲でこのギターを使っているんでしょう。
その他にも、マイク真木、桑田佳祐、藤井フミヤ、矢井田瞳、桜井和寿が使用しているそうです。ギターを弾かない私でも知っているメーカーですから、もっと他にも愛用者はいるんでしょうね。(2004.8.22)
英紙"The Independent" 2003年9月20日号 スポーツ・旅行版
2003年8月の下旬、ある外国の方からメールをいただきました。「イギリスの新聞"The Independent"に記事を書いている者ですが、あなたのサイトのキンタイア岬に関する文章を引用させてもらえないでしょうか。あなたの本名もお教え下さい。」
半信半疑で応諾の返事をしたところ、10分後に返事が。その後も何度かやりとりを行いました。記事は9月20日に載ることになった、とその方は連絡してくれました。
ちょうど9月20日は、英国を旅行している最中。その日の朝、早めに起きて売店で"The Independent"を買い、宿に戻って分厚い別紙(日本の新聞の日曜版のようなもの)をめくっていくと、旅行記事の中に「地球の果て 完全ガイド」というタイトルが。イギリスや世界の端にある見どころをいくつか紹介したその記事の中、"Oh Mist Rolling in from...?"という見出しの下に、私の名前とこのサイトが紹介されていました。
記事の概要は次の通りです。
ウイングスの1977年のシングル"Mull of Kintyre"はこれまでに世界で600万枚(そのうち250万枚は英国だけで)売れており、現在でもよく知られた作品である。ポール・マッカートニーはこのキンタイアに居を構えているが、日本のファンよしてるは、この地についてウェブサイトでこう描写している。「眼下には真っ青な海、そして鮮やかな緑の野原。快晴だったので全てがやさしい光に包まれていました。灯台の近くにはベンチがひとつ。ここで"Mull of Kintyre"を口ずさみました。静かな海の向こうには、アイルランドがうっすらと見えました。 」(後略)
当サイトを紹介してくれたMr. James Donaldに感謝します。イギリスで新聞を買ったらそこにポールと自分の名前が一緒に書かれていた、というのは忘れられない経験です。(2003年9月23日)
マル・オブ・キンタイアへの旅の詳細
英語版
日本経済新聞 2003年4月12日朝刊 加藤治郎が青年期をふりかえったエッセイ
歌人の加藤治郎さんが青年期をふりかえったエッセイに、ポールが登場しました。
「ヘイ・ジュード」はリアルタイムで聴き、ソロは「バンド・オン・ザ・ラン」から。大学3年生のとき、ビートルズ好きな女性とつきあうようになり、「マッカートニーII」を貸したら、「ウォーターフォールズ」の部分に傷がついてしまったようだが、そのことを切り出せずもどかしい思いをしたこと。その年の冬、ジョンが射殺されたこと。そしてそのときの短歌。
ブルーバード、ブラックバード舞う街にあいつの胸は砕けるだろう
(2003年7月27日)
読売新聞 都民版 2003年4月24日朝刊
おおおさんからいただいた情報です(おおおさん、ありがとうございます。)。
「都民版」にある「花緑だより」というコーナー。ここでハナミズキが紹介されていて写真も載っているのですが、このハナミズキ、実はポールお手植えのもの。1990年の来日時、東京ドームそばの小学校に植えたものなのです。もちろん、記事にはそのことについても書かれています。
この木について、詳しくは後述のメモ「東京の『ポール・マッカートニーの木』」に書いています(よろしければそちらもご覧下さい)。でも、それを書いた時と今では違っている点がふたつ。ひとつは、「ポールの木」の植えてある場所。私が訪ねていった後校舎の建て替えが行われ、その時に移植をしたそうです。でも、この記事にあるきれいな花(本当は「総苞」というらしい)の写真を見る限りでは、移植の影響は出ていないようです。
もうひとつは、残念なことに、この木を間近で見たくても、小学校の敷地内にはもう入れないということ。あの大阪教育大付属池田小学校の事件以後、小学校への部外者の立入は難しくなっているのです。でも、この記事にもあるように、ある門から覗けば立ち入らなくても木を見ることができるとか。
いずれにしても、ポールが植えてから13年たった今も、木が元気に育ちきれいな花(のようなもの)を見せてくれるのは嬉しいことですね。(2003年4月24日)
雑誌「English Network」2001年10月号(アルク)P.67
詩集「ブラックバード・シンギング」に関して、ラジオトークショー「フレッシュ・エア」で行われたインタビュー。「ヒア・トゥデイ」の「(ジョンと)一緒に泣いた夜」とはどんな出来事だったのか、などを語っています。(2001年9月10日)
雑誌「CNN English Express」(朝日出版社)
詩集「ブラックバード・シンギング」についての、ラリー・キングのトークライブを収録。「ヒア・トゥデイ」を朗読したりしています。語っている内容は、「イエスタデイ」は夢の中でできた、元々のタイトルは「スクランブル・エッグ」だったなどで、目新しい内容はありませんでした。(2001年9月10日)
日本経済新聞 2001年8月29日朝刊 第3面全面広告
新日鉄の広告。アビーロードのジャケットを模した横断歩道に、明らかにジョンを意識した人が指をさしています。その先には街頭照明のポールが。キャッチコピーは「あ、ポールが変わった。」。新日鉄が開発した、金属疲労に強いポールの広告でした。こんなネタが全国紙の全面広告に採用されてしまうのもポールならでは?ちなみにワーゲンはニュービートルに変わっていました。(2001年8月29日)
日経エンタテインメント 2001年8月号 P.48
私的録音補償金管理協会(略称SARAH)が、MDやCD-Rなどのデジタルメディアに課せられている「私的録音補償金」について理解を求めるために出した?広告。少年がマッシュルームカットでサージェント・ペパーズのブルーの服を着て、レフトハンド用リッケンバッカーベースのネックを振り回している写真に、大きく「どうせなら 才能をコピーしなさい」とのキャッチコピーが書かれています。たしかに、才能は別として、世界で一番たくさんの人にコピーされたミュージシャンはポールかもしれませんね。(2001年7月11日)
朝日新聞 2001年6月11日夕刊
どうも独占インタビューのようです。 日本の伝統音楽は?「聴く機会は少ないが、たとえば琴という楽器には興味がある。」日本のイメージは変わったか?「日本だって我々と同じように困難を経験するということに、新鮮な驚きを感じている。・・・いまは日本にとって好機だと思う」、「パウエル氏はビートルズの大ファンだということがわかった」「(ブッシュ大統領)からは、ビートルズ本にサインを求められた」など。
朝日新聞 2001年4月25日夕刊
ニューヨークで、ポールが地雷に関する講演をしたという記事です。ポールとヘザー・ミルズの写真が出ています。
それから、同じくニューヨークで行われた詩の朗読会について、当時はwebに記事が出ていました。
読売新聞 2001年4月23日夕刊
友人のS.ひろしさんからいただいた情報です。
ポールへの単独インタビューが掲載されています。アルバム"Wingspan"のプロモーションの一環かな。私自身がはじめて知ったのは、ポールが日本での逮捕時件を本に書き、娘や息子など一部の人にだけ配っていたということ。読んでみたい・・・・
朝日新聞 2000年2月13日(日曜版)(奈良版?)
イギリス研究会のNさんからいただいた情報です。
読者からのこんな投稿があったそうです。 「世代をこえて 友人が勤務するCD店で中高生の女の子たちが話していた。 正月にテレビで見た「おっさんたち」のライブがけっこう「イケてた」ので、自分たちもバンドで演奏してみたいという。 それは、元ビートルズのポール・マッカートニーのことだった。 (東京都武蔵野市・おっさんじゃなくて「神様」なのよ・37歳)」
よく思うのですが、ポールの魅力のひとつには、その音楽だけでなく人間までがエバーグリーンだということが挙げられるのではないでしょうか。この投稿はそれを端的に示しているように思います。57歳になってもなお若い女性の目にとまるんですから。今まで散々たくさんの人たちを虜にしておいて、まだやるかって感じです。
正月のライブとは、おそらく99年の12月に行ったキャヴァンでのライヴのことでしょうね。あのポールはたしかに「イケて」ました。特に安定した伸びのあるヴォーカルがすばらしかった。このときのヴォーカルを聴く限りでは、単発ライヴならまだまだ大丈夫ではないかと感じます。ポールには、今後もライヴ活動でもエバーグリーンな存在であってほしいものです。