タイトルからして軽い読み物かと思ってましたが、約400ページに知らない話が満載、密度の濃い本でした。一方で語り口は軽妙洒脱であちらこちらにユーモアが顔を出す(翻訳の大田直子さんの力量でもあるのでしょう)という、読んでいて愉しい本でもありました。
さて、この本の特徴として、遺伝子に関わる事象を説明するのに、関連する人物の興味深いエピソードを絡ませる手法が見事です。そのうちのいくつかをご紹介します(以下、枠内はよしてるによる要約です。)。
このメモの目次
- このメモの目次
- ネズミをネコに近づかせる寄生虫
- 人間とチンパンジーの交配による「ヒューマンジー」
- パガニーニが超絶技巧だった理由のひとつは
- 血族結婚の結果
- 万能人物の真実が200年後に暴かれる
- ゲイは子孫を残せないのに、なぜゲイ遺伝子は淘汰されないのか
- 関連メモ
ネズミをネコに近づかせる寄生虫
カナダ・オンタリオ州のライト夫妻は700匹のネコを飼っていた。毎日180個のキャットフードの缶詰を開け、15時間かけてネコの寝床を洗っていた。しかし、彼らはネコを飼うことをやめられない。これはトキソプラズマ原虫という寄生虫のせいかもしれない。トキソの8000個の遺伝子のうち2つは麻薬と同じく宿主のドーパミン生成を助ける。これにより、ネコの尿のにおいからハイな気分を感じるようになることがあるのだ。実際にトキソに感染したネズミはこのことによりネコの尿に近づくようになり、結果、ネコに食べられやすくなる。トキソはこれで最終宿主のネコにたどり着ける。ライト夫妻もトキソの影響を受けているのかもしれない。
寄生虫が、自分の都合のいいように宿主をコントロールすることができるなら、たしかにそういう遺伝子は生き残り広まりやすいですね。この事実から「生理的嫌悪感」と「読むのを止められない感」が両立させた極上のエンターテインメント小説が貴志祐介「天使の囀り」ですね。
人間とチンパンジーの交配による「ヒューマンジー」
ソ連の生物学者イリヤ・イワノビッチ・イワノフは異種間交配に情熱を燃やした。チンパンジーと人間の交配による「ヒューマンジー」の研究助成金はソビエト政府により認められた。ソ連の敵である宗教をこけにするチャンスだからだ。最初は人間の精子をチンパンジーに注入していたが失敗したため、今度はチンパンジーの精子をコンゴの病院の患者に無断で注入しようとしたが断られた。最後にはソ連当局がボランティアの女性を募集したところ、1928年に「私の人生はめちゃくちゃで、これ以上生きていても意味がありません・・・でも、私でも科学に貢献できると考えると勇気がわいて・・・」という手紙を書いてきた女性がいたが、精子提供側のオランウータンが死んだので、実験はできなかった。
研究・実験のためなら「実験台」の人間の気持ちや事情などまったく気にならなくなってしまう例としてはナチスのヨーゼフ・メンゲレ(彼の息子を主人公にした映画「マイ・ファーザー」の感想はこちら)が思い浮かびます。
しかしそれより先に連想したのは、1970年代に「人間とサルの中間の生き物」として来日しテレビでも話題になったオリバー君(実際はチンパンジー)です。オリバー君との間に子どもを作る企画があり、実際に女性から応募があったとか(企画はさすがに実現はせず)。この騒動の仕掛け人で自称「虚業家」の康芳夫さんのことは、荒木飛呂彦先生の「変人偏屈列伝」で知りました。
ところで、オリバー君は染色体が47本だという触れ込みがあり、それが「類人猿」である証拠の一つとされていました。チンパンジーは48本、ヒトは46本、その中間だからです。オリバー君は実際は48本でチンパンジーそのものだったのですが、ヒトとチンパンジーは先祖が同じはずなのになぜ染色体数が異なるのでしょうか。その答えも本書にありました。
染色体が融合してしまって本数が減ることは1000回の誕生に1回程度起きる。それほど珍しくはない。しかし、子作りが難しい。同じ融合を持ったパートナーと出会わなければならない(このあたりの説明がよしてるにはよく理解できませんでした)。
しかし、近親交配する家族は同じ融合を持った者同士が出会う確率は高くなる(同じ融合をもった者同士なら、36分の1の確率で染色体が46本の健康な赤ちゃんが生まれる)。このことから、染色体の数が48から46に減ったヒトが生まれたと考えられる。
2010年、中国で血族結婚を繰り返している一族に染色体が44本の男性がいたことで、上記の説が単なる仮説ではなくなった。
中国くらい人口がいると、いろんな「サンプル」があるのですね・・・
パガニーニが超絶技巧だった理由のひとつは
パガニーニは親指をねじって手の甲の向こうの小指に触れさせることができたし、中指の関節を横方向にくねらせることができた。
彼は遺伝性疾患であるエーラス・ダンロス症候群だった可能性がある。コラーゲンがたくさんつくれない疾患だ。身体の柔軟性が高まるが、筋肉の疲労、虚弱な肺、過敏な腸、青白く傷つきやすい皮膚につながりかねない。
パガニーニの身体は30代から悲鳴を上げ続けていた。彼の医師は、喉・肺・結腸の粘膜が刺激にとても敏感であることを説明している。すべてエーラス・ダンロス症候群に関連している部位だ。
ラフマニノフがマルファン症候群(高身長・長い指になることがある)だった可能性については聞いたことがありますが、パガニーニも疾患が演奏に影響を与えていた可能性があることははじめて知りました。
しかしこういったケースで、本人の思いはいかばかりか・・・日本にもエーラス・ダンロス症候群のピアニストの方がいらっしゃるようです。
血族結婚の結果
画家のアンリを生んだトゥールーズ=ロートレックの家系はカール大帝時代までさかのぼることができる。一族は何世紀もの間事実上の王として南フランスを治めていた。
彼らは、土地を失わないための策略として、たいてい身内同士で結婚した。アンリの両親はいとこどうしで、祖母二人は姉妹だった。
遺伝的疾患は父母両方から同じ遺伝子がセットで子どもに遺伝することで発現するから、似た遺伝子が多い血族結婚で発現率が高くなる。アンリにもその影響が大きかった。
アンリは生後6ヶ月でも体重が4500グラムしかなく、頭のやわらかい部分は4歳まで閉じなかった。下肢の成長が阻害され、身長が149cmとされているが、136cmだったという説もある。
アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック(写真はパブリック・ドメイン)
このケースで有名なのはハプスブルク家ですね。本書でもとりあげられています。カルロス2世は8歳まで歩けなかったとも言われています(参考:AFP通信「スペイン・ハプスブルク家、断絶の原因は「近親婚」か 研究結果」)
過去の人々も近親婚の危険についてはよく理解していたはずですが、それでも、高貴な家になると「純血」「土地確保」が優先された、ということなのでしょうか。
この本で学んだことは、同じいとこ婚でも、血族結婚を繰り返した家系のそれと、それ以外のものとでは危険度がまったく違うということです。日本ではいとこ同士の結婚は可能ですが、それとアンリ・トゥルーズ=ロートレックの両親(いとこ同士)の結婚はわけが違うようです。
ここを読んだ後、筒井康隆「ロートレック荘事件」(この本についてのメモはこちら)を思い出し、ああ、だからロートレックなのかと気づくのに時間がかかったよしてるは頭の血の巡りがよくないです・・・
あと、地理的要因から血族結婚が多くなり、その結果耳が不自由になる人が多くなったものの、住民同士の知恵でそれを解決していた島があります。アメリカのマーサズ・ヴィニヤード島がそれです。
万能人物の真実が200年後に暴かれる
トマス・ジェファーソンといえば、アメリカ独立宣言のメイン起草者で、アメリカ大統領で発明家で様々な分野で実績を残した学者でもあり、まあ、スーパーマンなわけですが、一方で彼とサリー・へミングスという黒人奴隷の間には恋愛関係があったという根強い噂がありました。
1999年にサリー・へミングスの子孫のY遺伝子を確認した。Y遺伝子は、他の遺伝子と交差して組変わることがないので、男性は息子に変異のない完全なYを伝えることになる。果たして、子孫のY遺伝子はジェファーソン家のY遺伝子と完全に一致した。要はジェファーソン家の誰か一人がサリー・へミングスの息子の父親ということになる。
ちなみに、トマス・ジェファーソン自身は隠し子の存在を否定、黒人と白人の結婚に公然と反対し、それを違法にするための法案を書いている。
身もふたもないなあ、というのが率直な感想です。いかに万能の人物とはいえ、200年後に自分のこんなプライベートが暴かれるとは予測していなかったでしょう。
あと、特定の人物とは関係ないですが、以前からの疑問にひとつの回答があったのでメモします。
ゲイは子孫を残せないのに、なぜゲイ遺伝子は淘汰されないのか
ゲイ遺伝子は「男性を愛する遺伝子」。この遺伝子を持つ女性も男性が好きになるので子孫を残せる確率は高くなる。
「異性を愛する遺伝子」ではないのですね。しかしこの理屈だと、男性でも女性でも「男性を愛する遺伝子」と「女性を愛する遺伝子」の両方を持っている、ということになりそうな気がしますが、個人的には「男性を愛する遺伝子」の存在が全然実感できません・・・(よしてるは同性愛者の方々を非難するつもりは全くありませんが)
こんな感じのエピソードが目白押しの本書、他にも「動物からとれるあらゆる肉や液体を摂取した地質学者」「ホッキョクグマの肝臓を食べた探検家たちの悲劇」「狩猟ができる前のヒトは動物の死骸や人肉を食べていたと言える理由」「ヒトとネアンデルタール人は交配していて、ネアンデルタール人DNAは現代アフリカ人より北欧人のほうに多く含まれている」など、興味深いエピソードが満載で、最初から最後まで飽きさせない内容でした。
関連メモ
人体と病
遺伝