[作品概要]
インドネシアでは、1965年に起こった「9月30日事件」(Wikipedia)をきっかけに100万人以上ともいえる人々が虐殺されました(参考:映画公式サイトの「映画『アクト・オブ・キリング』の背景」)。
この虐殺の加害者本人にインタビューし、彼らに殺害を再現させ、それを映像として記録したという映画がこれなのです。
[感想]
(ややネタバレですが、百聞は一見にしかずのことわざの通り、この程度でこの映画の力は削がれないとも思っています。)
当惑
虐殺犯人が自ら殺人方法を嬉々として演じる・・・ほんまかいな?そんなことできるの?というのが映画を観る前の思いでした。
で、実際に観てみると・・・これが想像以上にうれしそうに演じているのです・・・
いったいなんだこれはという当惑から、この映画への感覚は始まりました。
最初から、実際に本人が人を殺しまくった場所で熱心に殺人を再現。後半では、インドネシアのテレビにまで出て殺人を誇らしげに語るのです。
インドネシアではそれが普通なのかというともちろんそうではなく、テレビ局の人たちが「(よくそれだけ人を殺しておいて)夜眠れるわね」とつぶやいているシーンも収録されています。
虐殺者達だけでなく、その知り合いのならず者(まさにこれぞチンピラって感じの、悪党だが小物感抜群の奴ら)たちが好き放題してもそれが止められない国のように見えました、インドネシアは。この映画のカメラの前で、チンピラ達が華僑(虐殺事件の被害グループのひとつ)のお店からお金を平気で巻き上げていくのですから。
虐殺者たちも異常なら、奴らが普通にのさばる社会も異常-個人的にインドネシアのイメージはだだ下がりです。もちろんこれはこの国の一面に過ぎない、ということはわかっているつもりなのですが。
黒く真剣なまなざし
しかし、この映画の狙いは、単なる「暴露」「告発」だけではありませんでした。だんだん監督の黒い、しかし真剣なまなざしがはっきりわかってくるようになります。
虐殺者が映画監督に望んだ「雄大な滝の前で、女性たちが踊る中、荘厳なイメージの(しかし実際は安っぽい)音楽が流れ、自分が虐殺被害者に感謝される」という演出の映像を、リクエスト通りに、しかし醜悪に描き出すシーン。
人を多数なぶり殺しても何とも思っていない虐殺者がカメラ映りを気にして髪型や歯の様子を気にする映像の連発。
虐殺者たちが「見栄え良く」と思えば思うほど醜悪になっていく流れ、そして何も気づいていない本人たちを見下げる監督と映画館の客の視線の黒さと「共犯」関係。
こんな黒い気持ちを体感させてくれる映画は、私にとっては初めてです。
虐殺者に訪れる変容
最後の最後で虐殺者が「変わる」シーンがあります。作品冒頭の「リンチ殺害再現シーン」の場所で、同じ人物が冒頭シーンとはまったく違う反応を示すのです。
なぜそのような変容が起こるのかは、映画を観て知っていただければと思うのですが、これが非常に当たり前というか、オーソドックスな「方法」なのです。
このシーンでは、結局、良心の呵責どころか人をなぶり殺すのを「いい思い出・誇り高き仕事」だと思っている奴らは、「相手の立場に立つことができない」つまり「想像力が欠如した」だけの人間に過ぎないんじゃないかということ、そして、だからこそ、このような悲劇は社会がほんの少し狂えば多くの人間によって(もしかすると自分も?)行われるものなのかもしれない、という極めつけの身震いを感じました。
最後まで「これほんまのドキュメンタリーなんかな?出来すぎやで・・・」という思いと、驚き、怖れ、やりきれなさ、どす黒い気持ちを心に刻みつける作品でした。