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言語学の世界に投げ込まれた爆弾とは?−ダニエル・L・エヴェレット「ピダハン 『言語本能』を超える文化と世界観」

ピダハン―― 「言語本能」を超える文化と世界観

この本では、宣教師であり言語学者でもある著者が、アマゾン奥地マイシ川流域に住む人々「ピダハン」とともに暮らし、そこから学んだことが綴られています。

しかし、ここに書かれていることは、単なる「秘境の暮らしレポート」ではありません。著者のピダハン研究を、認知科学者S・ピンカーは「パーティーに投げ込まれた爆弾」と評しました。それほどの独特な言語・文化を彼らは有しているのです。



これまでの言語理論を揺るがすピダハン語

ピダハン語は他の多くの言語に比べ目立った特徴があります。

  • 「ありがとう」「ごめんなさい」に相当する言葉がない。後悔の気持ちや罪悪感を表すのは言葉ではなく行動。
  • 数を表す言葉や色の名前がない。
  • 「右」「左」に相当する言葉がない。代わりに「上流」「下流」を用いる。ピダハンが街に出かけると最初に「川はどこだ?」と尋ねるのはそのためだ。
  • 転位(英語のように、疑問文になると主語よりも動詞が前に来たりすること)がない(ただし、この特徴は他の言語にも見られる)。
  • 再帰(リカージョン)がない。英語や日本語なら「ダンが買ってきた針を持ってきてくれ」というところ、ピダハン語では「針を持ってきてくれ。ダンがその針を買った。同じ針だ。」と言う。文章が入れ子構造にならないのだ。


このような特徴のうち、特に最後の「再帰がない」という特徴は、言語理論の基礎となっているチョムスキーの生成文法理論にかかわるそうです。

生成文法理論とは、人間は脳に「言語器官」を有しているという考え方です。人間は生まれつき、遺伝的に文法能力を持っている。言語知識の原型がすでに脳に存在している。世界中の言語の文法はただ一つだが、子どもは特定の言語が話されることによって文法上の特性のあれこれのスイッチが入り自分の使う言語の文法が完成されていく。・・・そういう考え方です。これは、発表当時大きな驚きをもって迎えられましたが、今では言語理論の基礎であり非常に重要なものとして扱われています。

(参考)チョムスキーに関するメモ:酒井邦嘉「言語の脳科学」ジェームズ・ワトソン他、吉成真由美編「知の逆転」

その理論において、チョムスキーは、言葉が無限の表現が可能なのは再帰があるからで、人間言語に固有の要素であると提唱しています。ところが、その再帰がピダハン語にはないわけです。

著者は、当初はチョムスキーの著作をすべて読み込むなどして彼の理論に傾倒していましたが、ピダハンとの接触を通じ、生成文法理論に疑問を持つようになります。

チョムスキーは「認知→文法」を提唱しています。人間は生まれつき文法能力を持っている。文法は遺伝的なものである、と。

それに対し、著者は「文化→文法」なのではないか?と考えるに至りました。文法はあくまで文化に影響されるものであると。

わたしは言語を、その生まれた文化のなかで研究したい。文化的状況から切り離して言語を研究することはもちろん可能だし、そこから興味深い事実をたくさん知ることもできるだろう。けれどもそれでは、文法の秘密を解き明かす基本的な鍵は、きっと見つからないことだろう。

(参考)言語学における、文法と認知・文化の関係を整理すると以下のようになります。

  • 認知→文法 人間は生まれつき文法能力を持っている。文法は遺伝的なものである。(チョムスキー)
  • 文法→認知 文法が認知に影響を与える。言語はその言語の使用者の世界観に影響する。(サピアとウォーフ)
  • 文化→文法 文化が文法に影響を与える。ピダハン語にその因果関係が見られる(ダニエル・エヴェレット)


「直接経験の原則」

では、ピダハン語の特徴は、ピダハン文化のどのような側面が影響しているのでしょうか。

それは「直接体験の原則」です。彼らは、自分か話し相手がこの目で見たり体験したこと、つまり断定できることしか信じないし話さないのです。従って、歴史や創世神話・口承の民話がありません。絶対神や創造神という考え方はないのです。個々の精霊はいるのですが、彼らはそれを実際に観ています(としか思えないと著者は記しています)。

例えば、前述のピダハン語の用例「針を持ってきてくれ。ダンがその針を買った。同じ針だ。」。ここには2つの断定があります。一方で、日本語など多くの言語では、こういう場合「ダンが買ってきた針を持ってきてくれ」(再帰のある文章)と言いますが、この「ダンが買ってきた」には断定がありません。だからピダハン語は再帰を用いないと考えられています。

だから、著者が聖書の教え、つまりキリストの言葉などをピダハンに伝えようとしても、彼らは信じようとしません。著者がマルコの福音書をピダハン語に翻訳し、それをピダハンの人にテープに吹き込んでもらったものを聴かせても「しゃべっている者はイエスを見たことがない(からイエスの言葉は信じられない)」と拒否し、著者と仲良くなった人たちも著者に「わたしたちにイエス(キリスト)はいらない」とはっきり言います。



その他

この本では、そういった言語や文化以外についても興味深い記述があります。

例えば、ピダハンの村でマラリアにかかった妻と子どもを街まで連れて行くシーンには手に汗握りました。スリリングな冒険ものの映画を観ているよう。それにしても、小さな子どもがいるにもかかわらず医療機関の全くない地域に家族で伝道を行う信仰の力には改めて驚きます。

他には、ピダハンの人々はよく笑い、とても幸せそうに見えると来訪者が口々に語るというところも印象的でした。ピダハン語には「心配」という言葉もなく、彼らは今日のことだけを考えているそうです。

一方で、彼らは極めて保守的で、他の文化を自分たちより劣ったものとみなし受け入れません。他の言語を学ぼうともしないのです。キリスト教を受け入れるはずがないともいえます。

もっとも印象深かったのは、著者が、彼らと接していくうちに、それまで持っていた信仰への疑問がますます大きくなり、ついにはキリスト教を捨てるようになったというところです。さっき「信仰の力には驚く」と書いたところですが、著者とピダハンの間ではそれ以上の力が発生したわけです。

彼はこれまで無神論者や不可知論者と論争してきた経験もあるのですが、ピダハンの人々が徹底して「実証」を求める姿勢が彼の棄教につながったそうです。宣教師が布教に行って逆に信仰を捨てるって話は初めて聞きました。ピダハンの文化や人々の力とも言えますが、著者のそれまでの状況(信仰への疑問はもともとあった)や他文化を拒否しない柔軟な姿勢にもよるところが大きい気がします。なお、著者曰く「(著者の)家族も崩壊した」とのことです・・・



よしてる個人としては、ピダハンの文化には惹かれる面もそうでない面もあるのですが、この本を通読して一番感じたことは「多様性って大事だな」ということです。ピダハンのような文化も、日本の文化も、その他の文化も、それぞれ違ったものがこの地球上に同時に存在していること自体を大切にできればいいなと願うようになりました。


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