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カズオ・イシグロ「夜想曲集 音楽と夕暮れを巡る五つの物語」

ミステリともSFともいわゆる純文学とも言えるような、どの小説にも似ていない作品「わたしを離さないで」が大変印象深く、著者のカズオ・イシグロを追いかけてみようと思いつつ忘れていたところ、「わたしを離さないで」映画公開の報を聞きこのことを思い出し、手に取ってみたのがこの作品です。副題通り、音楽が関わっている短編が五つ。

最初の「老歌手」は、ベネチアのギタリストが、憧れのアメリカの老歌手に出会う話。老歌手はかつての栄華を失っている。彼はギタリストに、妻の誕生日のためにある協力を求めるが・・・ドラマティックな展開はありませんが、虚栄の世界に身を置く老歌手の選択に人生の深みを感じます。

第二編「降っても晴れても」では、一転してコメディに。ここで、私はイシグロの実力の幅広さをまた知ることになりました。抑えた物語で人間を描き深い余韻を残す作家だと思っていましたが、いやはやこういう一面もあるのかと。しかし、この小品に登場するさえない男性と「成功者」である学生時代の友人夫妻の関係には、やはり人間のある一面があぶり出されていました。ただの笑える話じゃない。プロデューサーに整形手術を受けるよう言われ、その病棟で女優と知り合う第四編「夜想曲」も同様にコメディの要素がありますが、この第二編に比べると笑えなかったし印象も薄かったかな。

第三編「モーバンヒルズ」では、物事のよい面ばかりを見る夫と問題点ばかりが目につき改善を要求する妻、そしてその二人に絶賛された芽の出ていない若手ミュージシャンという組み合わせ。発想が見事。この三人が、またしてもドラマティックではないけれど味わい深い会話を紡ぎます。

もっとも印象深かったのは第五編の「チェリスト」。大家の指導を受けた若い気鋭のチェリストが、街で出会った女性に演奏のアドバイスをもらうようになる。当初はその辛辣さから女性と距離を置いていたチェリストだが、その指導の効果に目を見張り・・・この女性の、現実から浮遊したような存在。そこから、不思議な、この作品独特の印象が醸し出される。

この、他にない唯一の印象というのが、カズオ・イシグロの作品の特徴だと私は思っています。言葉で表現できない、そしてオリジナルの印象。そしてそれは「小説」というメディアでしか表せられない。こういうものが書ける人って少ないと思うのです。だから、イシグロへの期待は高まるばかりとなっています。


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