この本の主題とタイトルの由来は次のようなものです。ニュートンがプリズムによって虹を科学的に説明した。キーツに言わせれば、それは詩性の解体である。つまり、科学は詩の敵であり、無味乾燥、温かみがない−そうだろうか?実際は正反対で、科学はインスピレーションの源であり、最高の詩の材料である。
つまりこれは、ドーキンスによる科学への愛と、それ以上に、科学を貶めるものへの怒りに満ちた書なのです。怒りの矛先は、「X-ファイル」のようなドラマ(超自然現象を持ち上げている)、占い、TVの超能力ショーなど多岐に渡ります。その舌鋒の鋭さは小気味よさを通り過ぎて少々やりすぎではないかと感じるほどです。
しかし、私個人がこの本で感銘を受けたのは、上記のような主題よりも、それを説明するために挙げられた科学に関する様々なトリビアでした。忘れないようにメモしておきます。
XY染色体はオス、XX染色体はメスが所有するが、鳥類だけは逆である。
これって有名な話だったら申し訳ないんですが、私には初耳でした。なんで?この本には残念ながらその理由は書かれていませんでした。
ヒトゲノムのうち、実際にタンパク質の合成に使われているのはたった2%ほどで、残りは「ガラクタDNA」と言われている。犯罪捜査のDNA鑑定で用いられるのはこの「ガラクタDNA」である。なぜか?理由は2つある。ひとつは、「ガラクタDNA」は生存に関係がないので変化しても影響がないため、結果的に個人差が大きくなっており、よって個人識別に利用しやすい。もうひとつには、「ガラクタDNA」にはDNAの「繰り返し配列」という単純化されたパターンがあるため、測定がしやすい。
「ガラクタDNA」が人間の(というより社会の)役に立っているという話を初めて聞きました。もちろん、「遺伝子淘汰」説のドーキンスに言わせれば、「ガラクタDNA」は人間に何も影響を与えなくても自身がコピーをして生き残っていければそれで自身の「役に立っている」ということになるのですが。
ゲンをかつぐのは人間に特有の行動ではない。アメリカの心理学者、B・F・スキナーに以下の実験がある。彼はハトがスイッチをつつくと、一定の確率でエサをあたえるタイプの装置をつくった。様々なタイプの装置を作成しハトに使わせた後、スキナーはハトが何をしても何もしなくても時々報酬を与えるようにした。この場合、ハトがすべきことは、何もしないで報酬をただ待つだけである。しかしハトはそうしようとせず、あるハトはコマのように回転したり、見えないカーテンを持ち上げるように頭を上げたりし始めた。これはハトにとっては、雨乞いの踊りと同じようなものである。
たまたま自分が回転したときにエサが与えられたハトは、「回転」と「エサ」に因果関係を見つけたつもりになってしまうのですね。ハトの気持ちもわかりますが、これはドーキンス流の容赦ない迷信批判でもあります。
ドーキンスの推測によると、人間が「神秘的な偶然の一致」に驚きやすいのは、私たちの祖先の典型的な集団が小規模であって、毎日の経験が後世に比べて貧弱なものだったからだ、ということになる。1,000万人が見ているテレビ番組で超能力者が「あなたの家の時計を止めます」と言ったときに実際に何家庭かの時計が止まることは少し考えてみれば不思議でもなんでもないが、小さな集落ではそういったことも起こりにくいし、話に聞くこともほとんどない。だから我々はテレビ番組に驚いてしまう。
おもしろい説だと思いました。たしかに我々は、「偶然の一致」に驚きやすいですよね。ドーキンスの挙げた例では、「ある部屋に複数の人間がいて、その中に同じ誕生日の二人が存在する確率を50%にするには、たった23人が部屋にいればよい」とのことですが、えっ?と思いますよね。
他にもカッコウと託卵先との「軍拡競争」など興味深い話題がたくさんありました。あと、にやりとしたのは、「文化遺伝子」ミームについての記述。ドーキンスが寝る前にある旋律に心奪われて眠れないという事態に陥ることがある、と書いた後、こう記しています。「レノン&マッカートニー(は)・・・重大な罪人である」と。