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マグナ・カルタはなぜ影響力を持ち続けたのか - ウィリアム・バーンスタイン「『豊かさ』の誕生」(第1部)

「豊かさ」の誕生―成長と発展の文明史

1820年頃はなぜ人類史において特別なのか

1820年前後は、人類史において特筆すべき時期。なぜなら、それまでは経済成長はあってなかったようなものだったけど、その時期から急激に経済が成長し始めたから、なのだそうです。

この本の第1部では、なぜそれが古代ギリシャやローマ帝国、ルネサンス期ではなく、1820年代のヨーロッパで起こったのかを解き明かそうとしています。

著者の主張は明快です。「私有財産権」「科学的合理主義」「資本市場(大規模な資本を調達できる市場の存在)」「迅速で効率的な通信・輸送手段」この4つがすべて揃ってはじめて、経済は成長するというのです。これら4要素は、16世紀のオランダでごく短い時期だけ揃ったものの、英語圏に定着したのは1820年頃だ、とのこと。このうちひとつでも欠けると経済成長は危機に瀕する、例えば18世紀のオランダではイギリスの海上封鎖によって、20世紀の共産諸国では私有財産権が失われたことによって、イスラム諸国では資本市場と科学的合理主義の欠落によってそうなった、と著者は記しています。

ここまでは、ああなるほどね、そうかも、面白いな、そんな感覚でした。しかしこの本の面白さが加速するのはこの後です。この4要素がそれぞれどのような過程で人類社会に起こり、根付いていったかを説明した箇所が本当に興味深かったのです。いろんなエピソードとわかりやすい考察が満載で。


マグナ・カルタはなぜ影響力を持ち続けたのか

例えば、イギリスのマグナ・カルタが「個人の自由と財産の権利の爆心地」と述べている箇所では、なぜマグナ・カルタがその後も影響力を持ち続けたのかを記しています。

マグナ・カルタは、イギリスのジョン王が戦争に負けて土地を失う、貴族から財産を巻き上げるなど暴政・失政続きだったため、「駄目だこいつ・・・早く何とかしないと・・・」と思った貴族が王に認めさせた約束のことですが、ジョン王はこんな約束は早々に反故にしようと考えていたようです。マグナ・カルタ成立の数ヶ月後、王はマグナ・カルタを無効とするローマ法皇の大勅書を発行してもらいますが、1年後に死去してしまいます。そして後継者のヘンリー3世は幼く身体も弱かったため摂政政治に。結局貴族と妥協する道をとることになり、マグナ・カルタは再発行されます。

要は、マグナ・カルタがその後も影響力を持ち続け、私有財産権の確立に一役買ったのも、ひとえにジョン王の死去のタイミングと後継者の弱さにあったというわけです。個人的には、この偶然がその後イギリスで民主政治が発展していった理由のひとつなのではないかと考えてしまいました。


他に、個人的に今まで知らなくてそうだったのかと感じた箇所をメモしておきます。


ルネサンスはなぜイタリアで起こったか

ルネサンスがイタリアで起こったのは決して偶然ではない。1453年に東ローマ帝国が滅亡すると、首都コンスタンティノープル(現在のトルコのイスタンブール)の宝物や古代ギリシャの手稿類が大量にヨーロッパに流出したが、最初にそれを見聞したのは地理的に近いイタリアだった(この話は有名かな)。


ハレー彗星とオーストラリアの「発見」

日食や彗星の到来を科学的に予言することが可能になったことで教会の権威は弱まり、科学的合理主義に信頼が置かれはじめた。ハレー彗星の名のもとになったイギリス人エドモンド・ハレーは、ハレー彗星の周期の解明など、天文学において多くの業績を残しているが、その他の分野でも画期的な仕事をしている。例えば、ドイツの都市から死亡記録を集めて最初の保険統計表を作成した。これは当時勃興しつつあった保険業において必要不可欠のものだった。また、ハレーは地球と太陽の距離をより正確に計るため、太平洋に観測船を出すべきと主張した。このための航海に出たのがジェームズ・クックで、クックはこの航海でハワイやオーストラリアを「発見」した。ハレーの主張があったからオーストラリアがイギリス人に知られるようになった、ともいえる。


本書第2・3部のメモ

続きはこちら。


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