庭を歩いてメモをとる

おもしろいことや気になることのメモをとっています。

南京事件について調べ始めた

1937年に起こったと言われる「南京事件」または「南京大虐殺」。あったとかなかったとかいろんな話を聞くので、関連本を少しずつ読んでみることにしました。

南京事件とは

そもそも、南京事件とは、いつ、どういう流れで発生したのでしょうか。

  • 1937年7月7日 北京で演習中の日本軍に中国兵が発砲 → 盧溝橋事件。日中戦争の発端となる。
  • 近衛文麿首相、日本人居留民保護のため中国への派兵を閣議決定 → 上海事変
  • 中国軍の想定以上の抵抗に対し日本軍が「第十軍」を追加。
  • 中国軍、南京方面に撤退。
  • 当時南京は中国の首都だった。中国国民革命軍の最高司令官・蒋介石も南京にいた。日本軍は、ここを落とせば日中戦争は終わると考えた。
  • 12月1日、大本営陸軍部が南京攻略の命令書を発出。しかしその時点で日本軍はすでに南京の目前まで到達していた。
  • 12月13日、南京陥落。この前後に起きた、あるいは起きなかった「捕虜や民間人の虐殺、強姦、放火、略奪など」が「南京事件」といわれている。
  • 12月17日、日本軍が「南京入城式」を実施。

日中戦争の初期、1937年12月ごろに起こったかもしれない出来事、ということですね。

この事件がなぜこれほどまでに論争になっているのでしょうか。もちろん、これが事実なら非常にショッキングな内容ですから大きな問題になるのはわかります。その他に何か理由はないのでしょうか。


中国のプロパガンダ?

菅沼光弘氏(元公安調査官)の「この国を呪縛する歴史問題」(徳間書店 2014年)では、南京事件について以下の記述がありました。

  • エドガー・スノウ(ジャーナリストで毛沢東と親しかった)の「アジアの戦争」(1941年)には以下の記述:
    • 日本軍は南京だけで少なくとも4万2000人を虐殺、大部分は女子ども
    • 上海から南京に進撃するあいだに30万の人民が日本軍に殺された
  • しかし、レポートの取材源はまったく不明でほとんどが伝聞によって書かれたものである
  • ハロルド・ティンパーリ(マンチェスター・ガーディアン紙特派員)の「戦争とは何か-中国における日本の暴虐」(1938年)の記述:
    • 4万人近くの非武装の人々が南京城内または城壁付近で日本軍により殺害された
  • ティンバーリは国民党の宣伝工作員だった
  • この本は南京にいた外国人の手紙や手記などを集めて編纂されたもの

菅沼さんは、以上のことから「『南京大虐殺』は欧米のジャーナリストがつくりだした」としています。たしかに、当時抗日戦線をつくっていた中国にとってはこのような報道はメリットがあったでしょう。

この本では最近の例も挙げています。

南京事件は、過去も現在も政治上の道具や宣伝、つまりプロパガンダとして扱われやすい。だからこそ論争・話題になる。そういうことなのかもしれません。


一次史料

南京事件が中国のプロパガンダだった可能性があることはわかりました。

一方で思ったのは、プロパガンダや宣伝は、まったく根も葉もないことをでっちあげることもあるが小さなことを大きくふくらませるものもある、ということです。ひょっとすると、数十万人の虐殺まではいかないものの何かあったのではないか。

歴史の場合、こういう時には一次史料にあたった本が一番よさそうに思いました。歴史学における一次史料とは「『そのとき』『その場で』『その人が』の三要素を充たしたもの」です(参考:国立国会図書館歴史史料とは何か|史料にみる日本の近代)。南京事件の場合は「事件当時、南京で、事件に関わった人が書いた文書」が一次史料にあたります。

少し調べてみると、南京事件についてよく知られた一次史料として次の本があるようです。南京に行軍した日本兵の日記を集めたもの。まさに一次史料(を集めた本)です。

ただ、自分で「一次史料が大事」といいつつ、昔の言葉づかいで書かれた日記をひたすら読むのもなかなかハードだなと思っていたところ、この日記を軸に南京事件を調べた本が最近出版されたと聞きました。しかも、著者は清水潔さん。桶川ストーカー事件などの調査報道で犯人特定に決定的な影響を与え警察の怠慢をあぶり出したことで知られるジャーナリストです。歴史の専門家による調査ではないとはいえ定評のある事件記者による調査には期待できるかもしれません。で、読んでみました。


兵士の日記を集めた人

まず清水さんは、日記を集めた小野賢二さんに会いに行きます。そもそも小野さんは何者で、なぜ南京事件に関わった兵士の日記を集めているのでしょう。

小野賢二さんは、数年前まで化学メーカーに勤務していたサラリーマン。地元福島県から南京に行った六十五聯隊の兵士たちの証言や日記を集めて27年。会った人は200人、集めた日記は31冊、うちコピーではなく原本を譲り受けたのが5冊。元兵士たちの証言の一部はビデオやカセットテープに収録しています。清水さん曰く「私の本業である『調査報道』の取材と同様といっても良いだろう。」

歴史研究者でもない方がここまでなさるのは並大抵ではなかったと思います。なぜそこまで?小野さんの父親は陸軍の憲兵で、子どものころに父親の軍刀と勲章を見て強烈な印象を持ったことがあった。30代のとき南京虐殺に触れた8ミリ映画を観て興味を持って調べ始めた。それがきっかけなのだそうです。

ちなみに小野さん自身は、元兵士たちにこんな気持ちをもっています。

虐殺は命令だったわけですから、関わった人たち個人を責める気にはなれないんです。俺がもしその立場だったらと考える時がある。軍隊の中だったら、たぶん、断れなかったんじゃないかなとも思うんですよ。


日記の内容

さて、清水さんは日記の原本5冊を確認します。本書には経年劣化具合が一冊ごとに記されています。相当な年月を経たものであることは間違いなさそうです。

そして、コピーも含めた31冊を読みます。結果、日記の内容の多くは互いを支え合っていました。次の点がほぼ共通していたのです。

  • 日付
  • 天気
  • 行程
  • 1937年12月12日くらいから中国の敗残兵を捕虜にし、その数が1万人以上に増えていった(人数にはややばらつきあり)
  • 12月16日に海軍施設のコンクリート壁に穴を空けてトーチカをつくる
  • 12月16日と17日にその捕虜を銃殺(時間帯や手法なども共通。ただ、これ以降の日が破かれている日記もあった。)
  • 18日と19日には死体処理に追われた(揚子江に流した)

捕虜銃殺について、今後調査の核になっていく黒須上等兵(仮名)の日記にはこう書かれています

12月16日
捕虜せし支那兵の一部五千名余、揚子江の沿岸に連れ出し、機関銃を以って射殺す。
その後、銃剣にて、思う存分に突き刺す。
自分も此の時ばかりと、30人も突き刺したことであろう。
山となって居る死人の上をあがって、突き刺す気持ちは、鬼をもひしがん勇気が出て、力いっぱい突き刺したり。
ウーンウーンと呻く支那兵の声。
一人残らず殺す。
刀を借りて、首をも切ってみた

なお、清水さんは内容確認とともに、戦地で書かれた日記そのものについての疑問にも応えています。

  • 当時のインクペンはガラス瓶のインクをつけて使う。そんなものを持って行けるのか → 日本に万年筆が輸入販売されたのは1895年。南京事件当時にはすでに相当数が利用されていた。
  • 万年筆であったとしても替えインクなど戦場に持って行けない。戦場で日記など書く余裕があるわけがない → 終戦間際で物資が不足したはずの戦場や防空壕からも万年筆は見つかっている。私(清水さん)自身も沖縄戦の取材でガマ(鍾乳洞)から発見された万年筆を何本も見た。



裏取り

さて、ここからが調査報道の真骨頂、一次史料の「裏取り」です。

日記著者

まず清水さんは、日記の書き手たちが本当に当時中国に兵士として行っていたのか等を確認していきます。書き手本人にも会おうとしましたが、みな亡くなっていたそうです。当時20歳だったとしても取材当時(2015年)で99歳になりますから、仕方なかったのかもしれません。

そのため、以下では黒須上等兵日記をもとに「裏取り」を行っていきます。なお、黒須上等兵は17年前に死亡していることが判明しています。

行程・命令内容

  • 日記に書かれていた「神戸港から白馬山丸に乗って上海まで5日かかった」 → 神戸港の出港記録と一致。船の性能と上海までの距離から計算すると必要日数も矛盾しない。
  • 中国上陸後の行動 → 防衛省戦史研究センターにあった軍の公式報告書と内容が一致。しかし12月以降の報告書は見つけられなかった
  • 大人数の捕虜の存在 → 1937年12月17日付朝日新聞に写真入りの記事あり。見出しは「持余す捕虜大漁 22棟鮨詰め 食糧難が苦労の種」。捕虜人数は14,777人と記載。


銃殺目撃者へのインタビュー

  • 揚子江上の駆逐艦から銃殺を目撃した元海軍兵士(当時18歳)が大阪で存命だったためインタビュー
  • 健康保険証と銀行通帳の軍人恩給受給状況により本人確認
  • 「南京で見たことは決して口外するな」と上官から口止めされたことを証言


捕虜の投降から銃殺までの様子を捉えたスケッチ

  • 第六十五聯隊の伍長が書き残していた(ただし描いたのは南京事件の翌年、病院にて)
  • 家を訪ねる → 本人は故人だったが息子さんがスケッチブックを見せてくれた(貸出は不可)
  • スケッチに記載のある船の名前「宇品丸」が実際に1937年に日本と南京を結ぶ軍需輸送に使われていたことを確認
  • スケッチと注釈内容が黒須上等兵日記の内容とほぼ一致
    • 清水さんは中国の現場(幕府山)も訪問、風景がスケッチと「そっくりだった」


幕府山の山頂で警備に当たっていた兵士のインタビューテープ

  • 第六十五聯隊第八中隊の上等兵
  • 捕虜の連行と暗くなってから機関銃の光を見たことを証言



この他にも、清水さんは南京市政府に「揚子江沿岸での虐殺被害者、目撃者、遺族と会いたい」という希望を出したものの、政府からは「生存している人を把握していない」と断られました。

ただ、政府からは、南京事件当時の記憶がある3人を紹介されました。その3人と、そのうち1人の証言の裏取りのために訪問した村で出会った1人からは、村人が日本軍を出迎えて握手したが大人の男は殺されたこと、女性は強姦されたこと、子どもは手を出されなかったことを聞き、犠牲者の墓に案内されたとのこと。


自衛のための発砲?

ただ、この捕虜銃殺については、自衛のためのやむをえないものだったという証言もあります。第六十五聯隊の両角連隊長からのものです。

  • 1961年、福島の地元記者の取材に対し自身の「回想ノート」を示して回答
  • 1937年当時、司令部からは「皆殺セ」と命令が下ったが両角氏はそんなことはできないと捕虜解放を決意
  • 12月17日、捕虜を河川敷に移動させそこから船に乗せ逃がそうとした
  • しかし捕虜がパニックになり警備兵を襲ってきたためやむを得ず機関銃で射撃
  • 射殺された捕虜は約1,000名、日本兵も7名戦死

これについての清水さんの考察は以下です。

  • 回想ノートと証言は戦後のもの
  • 両角氏が地元紙記者に見せた日記のコピーも確認したが「十七日 南京入城参加。Iは俘虜の開放準備、同夜開放」という文字が断片的に記されているだけで現場で書いた日記には見えない
  • 「『南京大虐殺』のまぼろし」を書いた鈴木明氏も17日の事件を取材しているが、山田栴二旅団長や数名の元将校の話でも「自衛であった」ことを強調。しかしこれも戦後の口頭説明
  • 一方で兵士たちの日記には捕虜解放のことが書かれていない
  • (ただし、日本兵7名が戦死したことは兵士たちの日記にも書かれている。銃撃後に生き残り抵抗する捕虜を撃ったり銃剣で刺した時同士討ちになってしまったようだ。)
  • 以上から「自衛発砲説は戦後になって作られた元将校たちの自己弁護ストーリーと考えた方が整合性はありそうだ。逆に死刑になった戦犯もいる中、利害当事者が自分たちの行為を懸命に繕おうとすることに疑問はない。」

私自身も、まだ両角氏の証言すべてや「『南京大虐殺』のまぼろし」を読んだわけではないので最終結論にするつもりはありませんが、清水さんの考察の方が腑に落ちます。


私の現時点での考え

以上のメモをもとに、私が考えたことを書いておきます。他の本を読んでまた変わるかもしれませんが。

なぜ捕虜を銃殺したのか

与える食料がないとの新聞記事があったが、逃がしてもよかったのでは?

清水さんの考察のうちのひとつは「生きて虜囚の辱めを受けず」を教え込まれていた日本兵に無抵抗に捕まる捕虜を理解しろといっても無理なのかも、というものです。また、逃がすとスパイになると考えた、という証言もあります。

それらもありえると思いますが、私が思ったのは、当時の中国に便衣兵、つまり一般市民の格好をした兵士が多かったことです。捕虜を解放したらみな自分たちを殺しに来る。日本軍はそう考えたのではないでしょうか。

もちろん、だからといって戦争行為を放棄した捕虜を殺害するのはハーグ陸戦条約第23条違反です。日本は1911年にこれを批准しています。なので、これは突き詰めると捕虜の長期収容のことまで考えて補給線を組めなかった日本軍司令部の計画能力の問題のようにも思えます。

1万人以上の死体を川に流せるのか

1万人以上の死体を2日間で川に流すことは可能なのでしょうか。これは確認する方法が今思いつかないのでなんともいえません。

南京事件はあったのかなかったのか

南京事件が、よく言われる「30万人を虐殺」「日本兵による百人斬り競争」があったのかどうかは確認できていません。なかったのかもしれません。

でも「1万人以上の無抵抗捕虜の銃殺」はあったと考える方が自然だと思っています。

それは一般的に認識されている「南京事件」の内容とは異なるのかもしれません。なのでその意味で「南京事件」はなかったのかもしれない。でも1937年12月に、戦闘行為以外での日本軍による中国人の大量殺害はあったのではないか。

まだ2冊しか本を読んでない状況ですので、これから考えは変わっていくのかもしれませんが、現時点ではそう考えています。


ちなみに、日本政府の公式見解は以下です。

日本政府としては、日本軍の南京入城(1937年)後、非戦闘員の殺害や略奪行為等があったことは否定できないと考えています。しかしながら、被害者の具体的な人数については諸説あり、政府としてどれが正しい数かを認定することは困難であると考えています。
引用元:歴史問題Q&A | 外務省


その他

その他に「『南京事件』を調査せよ」を読んで感じたこと。

  • 取材や考察の合間に、安倍政権を訝しげに感じるコメントが度々挿入される。南京事件と関係ないのでやめてほしかった。調査報道の過程とその結果、そして考察など基本的な内容がとても充実していただけに残念。
  • 中国では、学校で南京事件とともに旅順虐殺ついても学ぶ。日清戦争の際に1万人(諸説あり)の旅順村民が日本軍に殺害されたとされる事件。私は存在そのものを知らなかった。
  • 元兵士の日記を収集した小野賢二さんが感じた、日記を見せてくれる人の共通点:「経済的に恵まれていて、現在の生活に余裕があって・・・、そしてこれが重要ですけど、家族関係がうまくいっている人なんです」過去と向き合うにはそれなりの余裕が必要、ということなのだろうか。



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