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一生変わらないはずの遺伝子が「変わる」?−仲野徹「エピジェネティクス」

エピジェネティクス――新しい生命像をえがく (岩波新書)

遺伝子は「生命の設計図」と言われています。髪の毛や肌の色などの身体的特徴から、特定の病気にどのくらいかかりやすいかとか、どういうことが得意でどういうことが苦手かなどの内面的な特徴まで、私たちが遺伝子により決定されている・または影響を大きく受けているものはたくさんあります。

そしてこの遺伝子は、受精から死ぬまで変わることはありません。

しかし、生まれた後の状況により、あたかも遺伝子が変化したかのような事象が起こることがあります。この本のタイトル「エピジェネティクス」はそういう事象を説明するための言葉です。

では、「あたかも遺伝子が変化したかのような事象」とは?



あたかも遺伝子が変化したかのような事象

  • 生まれるときに低体重だと、高血圧や糖尿病になりやすい(当ブログ「NHK取材班「病の起源2」に関するメモの「糖尿病」参照)
  • イギリスとウェールズで、1911〜25年に生まれた男性5000人以上の追跡調査をおこなったところ、新生児期の体重が低いと、冠動脈疾患で死亡する率が高いことがわかった。
  • 同じ系統のラットでも、毛繕いをしたり、体をなめたりして子どもをよくかわいがる親に育てられたラットは、ほったらかしの親に育てられたラットに比べて、ストレスに強くなる。具体的には、コルチゾール(心拍数の増加や発汗など、ストレスにさらされたときの反応を引き起こす物質)の血中濃度が低くなる。

以上の3つの事例は、まるで生まれた後の経験が遺伝子に作用していたかのようです。遺伝子は受精卵の段階で決まっていて不変であるはずなのに、なぜこういうことが起こるのでしょうか。



「遺伝がすべてならこうはならない」事象

  • 自閉症は一卵性双生児で96%、二卵性双生児で24%が二人とも発症する。遺伝によるものなら、本来はそれぞれ100%、50%が発症するはず。
  • 雄のロバと雌のウマをかけあわせる → ラバ(体格大きめ、粗食に耐える、おとなしい)。一方で雄のウマと雌のロバ → ケッテイ(体格小さめ、あつかいにくい性格)。ラバもケッテイも、遺伝子がウマとロバの半々で成り立っている点で同じであり、本来は差がないはず。

なぜこのような差が生じるのでしょう。これは、遺伝子を生命設計のための「文章」に、「付箋」を貼ったり「伏せ字」にしてしまうという現象、つまりエピジェネティクスがあるかららしいのです。



遺伝子への「付箋」や「伏せ字」

遺伝子を文章に例えると・・・

  • 付箋:ヒストン修飾」
    • 活性型・・・「ここを読みなさい」
    • 抑制型・・・「ここを読んではいけません」
  • 伏せ字:DNAメチル化・・・読めない

以上の現象により「文章は変わらないが読みとれる内容は変わる」つまり「遺伝子は不変のままだが、遺伝子による発現に変化が起こる」という「エピジェネティクス」が起こるのだそうです。

上記の「あたかも遺伝子が変化したかのような事象」や「『遺伝がすべてならこうはならない』事象」もこのエピジェネティクスで説明できるらしいです。

ちなみに、ヒストンとは、総延長1.8メートルにも及ぶDNAを5マイクロメートル(0.005ミリメートル)のサイズに巻き取る「糸車」なのだそうです。そのヒストンがDNA転写のときに活性・抑制の作用を及ぼすとのこと。

メチル化は、DNAを構成する4つの塩基「チミン、アデニン、シトシン、グアニン」のうちシトシンにのみ作用します。メチル化を受けると本来なら結合できるはずの転写因子が結合できなくなるらしく、まさに「伏せ字」ですね。



エピジェネティクスの応用

エピジェネティクスの仕組みが解明されていくことで、私たちの生活に直接の影響がありそうな話としては、エピゲノム創薬があります。DNAメチル化阻害剤というものを使うことで、白血病の一部やがんの一部への効果が期待されているそうです。

しかし、あるエピジェネティック修飾因子が病気の発症にも抑制にも関与していることがあるなど、応用が難しいらしいです。「あちらを立てればこちらが立たぬ」ということでしょうか。まあこれは薬全般に言えることですよね。薬には必ず副作用がある。個人的には、あのサリドマイドが実はハンセン病やがんに効果がある(参考:銀座東京クリニック「サリドマイドの抗がん作用について」)と知った時には、本当に薬って難しいものだし、人間の身体も何にどう反応するかわからないものだなと思ったものです。



ルイセンコ学説との関連

遺伝の本を時々つまみ食いしている私にとっては、このエピジェネティクスの仕組みで氷解できる疑問点が多くあり(前述の内容の他には、働きバチと女王バチは同じ遺伝子なのにロイヤルゼリーだけでなんであんなに違う生き物になるの?とか)、とてもすっきりしました。

しかし、新たな疑問もわいてきました。

本書には、セイヨウタンポポを低栄養状態にして育てると、DNAのメチル化状態に変化が生じ、その次の世代のタンポポにもそのメチル化が引き継がれるというケースが紹介されています。

つまり「親が後天的に身に付けたことが子どもに遺伝する」=「獲得形質の遺伝」という、遺伝のセオリーでは絶対に起きないと言われていたことが確認されているのです。

これを読んで思いだしたのがルイセンコの学説です(本書にも記述があります。)。この説のせいでソ連・中国・北朝鮮では大量の餓死者が出ました。

説の根本は(1)小麦を低温処理すれば開花時期が変わり、(2)そういう「低温処理」の結果は次世代の小麦にも遺伝的に引き継がれるというもの。(1)は事実なのですが、(2)つまり「獲得形質の遺伝」が間違っていました。それに、ルイセンコが報告した農業上の成果は嘘がほとんどだったそうです。それでも、この「知恵をもって処理をすれば遺伝子をも変えられる」「農民の子(ルイセンコ)も科学者になれる」というストーリーが共産主義の考え方と一致しているため、これらの国でルイセンコ学説はもてはやされましたが(そして反対者は銃殺や収容所送りに・・・)、そもそも学説が事実と異なるものなので、ルイセンコ学説をもとにした農業政策はことごとく失敗した、というわけです。いくつかの話を読んでいると、ルイセンコはソ連崩壊の一端を担っているという気までします。

でも上記のセイヨウタンポポの例ってまさにルイセンコ説ですよね。農業政策はだめだったけど、彼の考えが今になって「間違いとは言えない」ことがわかったってことでしょうか。非常に興味深いです。



以上が私の理解した本書の内容です。本書は、わかりやすい記述と親しみやすい語り口が一貫しており、その点ではとても一般人にフレンドリーなのですが、いかんせん書かれている内容そのものが私にとっては難解で、結局理解できない箇所が本全体の半分くらいありました。著者の方の心遣いと力量はよくわかるので、これはひとえに私の問題だと思います・・・

あと、現時点ではわかっていないことはわかっていないとはっきり書いている点も好感が持てました。そのため、読み始めた当初は歯切れの悪い印象を受けましたが、だんだんと「わかるわからないについて厳密だなあ」と感じるようになりました。

結果、理解できるところだけを読んでも「エピジェネティクス」の基本と、研究がどこまで進んでいるかの現状は学ぶことができたと思います。



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