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「実在と系譜が確実な最初の天皇」継体天皇はなぜ天皇になれたのか

(2019年4月27日更新)

第26代継体天皇は多くの歴史上の人物の中でも、かなり興味深い存在です。

まず、歴史的に実在と系譜が明らかな最初の天皇と言われていること。つまり、多くの考古学者の間で、現在の皇室の源流とみなされている人物なのです。

また、それまでの天皇とはかなり離れた血筋の人物で、西暦507年の即位後大和国の都に入るのに19年かかっています。つまり即位に賛否両論あったわけです。

ではなぜそのような人物が最終的には天皇になれたのか?

こういった疑問への回答を示しつつ、継体の来歴、さらに人となりまでを描き出しているのがこの本でした。

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継体埋葬時の服の復元(今城塚古代歴史館にてよしてる撮影)


なぜ継体天皇以前の大王(天皇)の血筋(仁徳王統)は滅んだのか

なぜ継体天皇が選ばれたかを知るには、まず継体天皇以前の大王家の状況を知る必要があります。いったい何があったのでしょう。

雄略天皇の王族抹殺

まず第一に、雄略天皇が王族を次々と消していったことが挙げられます。

  • 第21代雄略天皇(5世紀後半在位)は、政治的・軍事的な天性・先見性を備える反面、王の座を得るまでに何人もの兄弟や従弟を容赦なく殺害。 
  • 雄略の近親者殺害に関する逸話としては、2代後の第23代顕宗天皇は父の敵である雄略天皇陵を破壊しようとしたが、兄(後の第24代仁賢天皇)から諫められる・・・という出来事があったほどである。

これだけ派手にやれば、後継者が減るのも当然、という気はします。

一応フォローしておくと、上のメモにもあるように、雄略天皇はただ残虐なだけではなかったようです。「エンカルタ総合大百科2002年」から引用します。

「古事記」「日本書紀」には、治世中は罪のない人を鳥養部(とりかいべ)におとしたり、吉備田狭(きびのたさ)をあざむき妻をうばうなど暴虐記事が多い。しかし葛城・吉備などの臣姓豪族を没落させ、大臣・大連制度の導入で大伴氏や物部氏など身内の連姓豪族の地位をあげることに功績があったともいえる。渡来人の大和への移住をすすめて王家の財政基盤を充実させながら、大王(おおきみ)としての専制権力をかためていった。Microsoft(R) Encarta(R) Reference Library 2002. (C) 1993-2001 Microsoft Corporation. All rights reserved.

この「王族抹殺」により、王権は一旦衰退します。第21代雄略陵と推定される岡ミサンザイ古墳は全長238メートルもありますが、以降第22代清寧陵115メートル、第24代仁賢陵(推定)が122メートルとほぼ半分の長さとなっているのです。

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岡ミサンザイ古墳(「仲哀天皇陵」と表示されていますが、学術的にはこれが雄略陵と推定されています。)引用元:Google Maps。以下航空写真地図は同様
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清寧陵(上記写真と同じ縮尺)

航空写真で見ればどれだけ小さくなったか、言いかえれば王権の衰退ぶりが一目瞭然ですね。

武烈天皇の「残虐非道」エピソードの背景

ちなみに、継体天皇の前の第25代武烈天皇は、妊婦の腹を割いたとか、人を樋に流しそれを矛で刺して喜んだ、などという異常な行動が記録されています。

これは、跡を継がせる血統の近い者が途絶えてしまったため、武烈と継体の血筋があまりにも離れてしまうことになってしまったことと関係があるといわれています。

血筋の離れた継体に王位を継がせるための理由として「前代が異常な人物だったから」とするしかなかった・・・そう考えられているのです。

この推測を補強する事実もあります。このような武烈の残虐非道ぶりは「日本書紀」にのみ書かれており「古事記」には一切出てきません。

そのことからも、武烈のエピソードは真実ではないこと、逆に言うとそこまでして継体を跡継ぎにするしかなかった事情があった、という推測はかなり適切なのではないかと思います。

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継体・武烈の血筋の「距離」
ウィキペディア「継体天皇」から抜粋
系図で可視化すると「血の遠さ」がよくわかります。

どれほど遠い傍系でも「~王」と名乗れた

さて、王統が途絶えたもうひとつの理由として著者の水谷さんが挙げていたのが以下です。

  • 臣籍降下(皇族が一般人となること)がまだなかった(7世紀前半に始まったとみられる)
  • このため、どれほど遠い傍系でも「〜王」と名乗ることができるので、政権中枢からは疎外されながらも地方で実力を蓄えることも多かった。

私には、これが王権の途絶えた理由であることがよく理解できないのですが(皇族が増えてむしろ王権は途絶えにくいのでは?)、継体天皇は今の滋賀県高島出身で、まさに「地方で実力を蓄えた」ケース。継体天皇が王位を継ぐに至った背景のひとつ、ということは理解できます。

なぜ継体天皇が選ばれたのか

以上のように、雄略天皇による王族抹殺により、それまでの王族血統が途絶えてしまったこと、一方で、遠い血筋の王族は増加していたことはわかりました。

では、遠い血筋の王族は多数いたはずなのに、なぜ継体が選ばれたのでしょうか。

継体は第一候補ではなかった

実は最初に選ばれたのは継体ではありませんでした。

倭彦王(やまとひこおおきみ)が第一候補だったのです。しかし、彼は迎えの兵士をみて怖くなり、行方不明となってしまったそうです。

この人物が怖がりというよりは、雄略天皇の身内殺害が多くあったから「私も殺される」と勘違いし、こうなったのかもしれません。

ではなぜ継体天皇が?

本書は、明確にこれだという回答を示しているわけではないですが、通読すると浮かび上がってくるキーワードがあります。

それは国際性です。

継体の国際性

継体の実績:

  • 百済に対する援軍と領土拡大譲歩を行った見返りに、百済から五経博士を派遣してもらった。
    • これは単なる人的交流ではなく、当時の日本になかった重要な統治文化の輸入であった。
    • 博士とともに日本にやってきたものは:
      • 「氏」名の成立。記録によると、雄略(第21代)期には名字はなかったが、継体(第26代)〜欽明(第29代)期に成立
      • 和風諡号(天皇の死後に名を贈ること)と殯(葬儀)宮儀礼 等
  • 半島で活躍し帰国した首長に冠などを与え評価
  • 秦氏など渡来人を重用

たしかに、継体はこのような積極的な対外交渉、文化輸入、外国人登用を行っていたようです。まさに国際派。

ではその素地はどこにあったのでしょうか。

  • 継体の故郷・滋賀県高島は当時国際性の高い土地だった:
    • 渡来人が暮らしていた(オンドルなどが発掘されている)
    • 日本海経由で九州有明沿岸地域と結ばれ海外に開かれていた

国際性の高い土地で生まれ育ったからおのずと国際性が身についたのですね。

実は、継体天皇の父彦主人王(ひこうしのおう/ひこうしのおおきみ)は、もともと近江坂田にいましたが彼の代で琵琶湖対岸の高島に移りました。そこは当時の国際ルートだったというわけです。これが継体の飛躍につながっているのでは、というのが著者の指摘です。

私はこれを読んで納得するとともに、現代において、家族帯同で海外赴任の可能性が高い職や企業を志望する人々や子どもをインターナショナルスクールに通わせたりする人たちのことを連想しました。つまり、彦主人王と、自分の仕事や子ども達の将来のために国際性の高い場所・職・学校などを求める現代人とは似た思いがあったのかな・・・なんて思ったわけです。

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継体天皇と百済武寧王

継体の国際性について、著者はさらに大胆な、そして古代への思いを一層馳せることのできる推測を行います。

それは、継体は5世紀後半頃半島に渡り、百済の重要人物と交わりを結んで帰国したのでは、というものです。

根拠としては、和歌山県隅田八幡神社所蔵の人物画像鏡があります。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/8/83/Sumida_Hatiman_Mirror.JPG/475px-Sumida_Hatiman_Mirror.JPG
ウィキペディア・コモンズより[パブリック・ドメイン])

この鏡は、日本最古の「金属または石に刻まれた碑文」として国宝に指定されているほど貴重なものです。

そしてその碑文の内容は「「癸未年」(503年)、「斯麻」が鏡を作らせて「男弟王」の長寿を祈った」という内容。

この「斯麻」は百済の武寧王であり、「男弟(おおと)王」は、継体の名前「男大迹(おほど)王」と推定されています(異論もあるそうですが)。

つまり「503年に百済の武寧王が即位前の継体天皇に、長寿を祈って贈った物」と読み解けるのです。

そうすると、次の特異な点が浮かび上がります。

  • 百済の王が自らに「王」をつけず謙譲的な名乗りをしている
  • 即位前の継体に長く奉えることを願っている

百済の王が礼をもって日本の即位前の王に貴重な贈り物が贈られていると考えられるのです。

そして、武寧王の棺(継体17年に死去)は日本にしかない高野槙で作られています。これは継体から武寧王への贈り物なのでしょう。

以上を総合すると、継体と武寧王は個人的な親交があったのではないか、国のトップ同士が友達同士だったかもしれない、という推測が成り立ちます。

このあたりを読むと、個人的に「遠い遠い昔の、資料の中の記録に過ぎない」という印象を持っていたこの時代の出来事が、一気に「血の通った人間のドラマ」に感じられてきました。「ロン・ヤス」もいいけど、それ以上の関係が古代にあったかもしれないなんて。

著者水谷さんは、「謎の豪族 蘇我氏」同様、研究者らしく事実の積み重ねとそれに基づく考察でこの本を構成していますが、行間にこの時代へのあふれる想いを感じるのですよね。それがこういう「人間ドラマ」を感じさせてくれた側面もあります。


継体が都に入るまで19年かかった理由

そして残る大きな謎である、継体が即位後、都に入るのになぜ19年もかかった理由。

そして、前のメモで書いた蘇我氏の台頭。

この2つは、継体在位中の出来事から読み取ることができます。

  • この時代の石棺には、阿蘇(有明海沿岸勢力の中心)のピンク石を使ったものがある。これらはいずれも「葛城氏とは対立的で、継体天皇の支持勢力が多かった大和盆地東麓エリア」の古墳に集中している。葛城氏の勢力にはない。
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  • ↑今城塚古墳のそばにある「今城塚古代歴史館」に展示されている阿蘇ピンク石の実物(よしてる撮影)
  • よって、当時の大和王権は、「継体支持勢力+有明海沿岸勢力 VS 葛城系勢力」という構図だったと考えられる。
  • そんな中、磐井の乱が勃発。これは、継体が大和に入った1年後、大和王権と九州の筑紫君磐井との間に起こった軍事対決。先に官軍(継体)が攻撃を起こした。中央より独立しようとしていた磐井を鎮圧した戦いと考えられている。
  • このころ(6世紀初頭)、突然ピンク石の畿内持ち込み中止・・・磐井の乱の影響だろう
  • また同時期に、葛城氏の古墳が小形化・・・継体天皇の大和入りにより継体反対勢力の葛城氏の政治連合は解体されたのであろう。
  • その後、葛城氏に変わって蘇我氏が台頭。継体支持の功績がきっかけだったと考えられる。

継体が反対派と戦い、九州の反大和王権派を鎮圧。その過程で「継体派」の蘇我氏が台頭・・・継体天皇の即位から在位の間には、これだけの大きな変化が起こっていたのです。


継体天皇の政治の結果

第26代継体天皇陵と推定される今城塚古墳の全長は190メートル。雄略天皇の後、古墳は小形化しましたが、それが雄略陵と同程度の大きさに戻っています。
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今城塚古墳(学術的に継体天皇陵と推定されている)

水谷さん曰く「王権の復活が象徴されている」のです。まさに継体が成し遂げた政治の結果を表しているものだと言えるでしょう。

逆に言えば、それだけの手腕が見込まれたからこそ、継体天皇は跡継ぎに選ばれたのかもしれません。

現代の皇室まで続く1,500年にわたる歴史はこの継体天皇が源(の可能性が高い)と考えると、「政治の中心からはほど遠いが国際性は豊かだった地」から紆余曲折を経て皇位に就き、国内の政治地図を塗り替え百済との交流を積極的に進めた彼の治世がより重要なものだと感じられます。

このようなドラマとロマン(死語?)を味あわせてくださった著者の水谷さんの力にも感心しました。

このメモのまとめ

  • 継体天皇はなぜ天皇になれたのか?
    • 雄略天皇が王位に就くためライバルの王族を次々抹殺した結果、血筋の近い跡継ぎがいなくなってしまった。
    • その中で、継体は血筋は離れていたが、国際性と実力があったため選ばれたようだ。
      • 血筋の離れた傍系の中では、倭彦王(やまとひこおおきみ)が第一候補だったが、彼は迎えの兵士をみて怖くなり、行方不明となってしまった
      • 一方継体は、若い頃百済に渡った可能性があり、そこでのちに武寧王となる人物と人間関係を構築するなど、国際性があった
      • また、古墳の大きさからも、継体は王権を復活させたと考えられている。それだけの実力のある人物だったと推測される。
  • では、なぜその継体が都に入るまで19年かかったのか?
    • 当時の大和王権は、「継体支持勢力+有明海沿岸勢力 VS 葛城系勢力」だった。
    • 葛城系勢力が継体の都入りを阻んでいた
    • 継体が都に入った後、葛城系の古墳は小さくなっていることからもそれがわかる
    • その後、蘇我氏が急に台頭する。継体を支持していた「功臣」だった可能性が高い。




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「真の継体天皇陵」と推定されている今城塚古墳の夕暮れ(よしてる撮影)

関連メモ

「真の継体天皇陵」訪問記


古代日本


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