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「実在と系譜が確実な最初の天皇」継体天皇はなぜ天皇になれたのか

第26代継体天皇は多くの歴史上の人物の中でも、かなり興味深い人です。

まず、歴史的に実在と系譜が明らかな最初の天皇と言われていること。つまり、多くの考古学者の間で、現在の皇室の源流とみなされている人物なのです。

また、それまでの天皇とはかなり離れた血筋の人物で、西暦507年の即位後大和国の都に入るのに19年かかっています。つまり即位に賛否両論あったようなのです。なぜそのような論争があったのか?なぜそのような人物が最終的には天皇になれたのか?

こういった疑問への回答を示しつつ、継体の来歴、さらに人となりまでを描き出しているのがこの本でした。

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継体埋葬時の服の復元(今城塚古代歴史館。よしてる撮影)


なぜ継体天皇以前の大王(天皇)の血筋(仁徳王統)は滅んだのか

なぜ継体天皇が選ばれたかを知るには、まず継体天皇以前の大王家の状況を知る必要があります。いったい何があったのでしょう。

まず第一に、雄略天皇が王族を次々と消していったことが挙げられます。

  • 第21代雄略天皇(5世紀後半在位)は、政治的・軍事的な天性・先見性を備える反面、王の座を得るまでに何人もの兄弟や従弟を容赦なく殺害。 
  • 雄略の近親者殺害に関する逸話としては、2代後の第23代顕宗天皇は父の敵である雄略天皇陵を破壊しようとしたが、兄(後の第24代仁賢天皇)から諫められる・・・という出来事があったほどである。

これだけ派手にやれば、後継者が減るのも当然、という気はします。

一応フォローしておくと、上のメモにもあるように、雄略天皇はただ残虐なだけではなかったようです。「エンカルタ総合大百科2002年」から引用します。

「古事記」「日本書紀」には、治世中は罪のない人を鳥養部(とりかいべ)におとしたり、吉備田狭(きびのたさ)をあざむき妻をうばうなど暴虐記事が多い。しかし葛城・吉備などの臣姓豪族を没落させ、大臣・大連制度の導入で大伴氏や物部氏など身内の連姓豪族の地位をあげることに功績があったともいえる。渡来人の大和への移住をすすめて王家の財政基盤を充実させながら、大王(おおきみ)としての専制権力をかためていった。Microsoft(R) Encarta(R) Reference Library 2002. (C) 1993-2001 Microsoft Corporation. All rights reserved.

ただ、この「王族抹殺」により、王権は一旦衰退します。第21代雄略陵と推定される岡ミサンザイ古墳は全長238メートルもありますが、以降第22代清寧陵115メートル、第24代仁賢陵(推定)が122メートルとほぼ半分の長さとなっています。

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岡ミサンザイ古墳(「仲哀天皇陵」と表示されていますが、学術的にはこれが雄略陵と推定されています。)


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清寧陵


さて、王統が途絶えたもうひとつの理由として著者の水谷さんが挙げていたのはこれです。

  • 臣籍降下(皇族が一般人となること)がまだなかった(7世紀前半に始まったとみられる)ので、どれほど遠い傍系でも「〜王」と名乗っており、政権中枢からは疎外されながらも地方で実力を蓄えることも多かった。

私には、これが王権の途絶えた理由であることがよく理解できないのですが(皇族が増えてむしろ王権は途絶えにくいのでは?)、継体天皇は今の滋賀県高島出身で、まさに「地方で実力を蓄えた」ケース。継体天皇が王位を継ぐに至った根っこの理由のひとつ、ということは理解できます。


なぜ継体天皇が選ばれたのか

最大の疑問は、遠い血筋の王族は多数いたはずなのに、なぜ継体が選ばれたのか、です。

最初は倭彦王(やまとひこおおきみ)が選ばれたようなんですが、彼は迎えの兵士をみて怖くなり、行方不明となってしまったそうです。この人物が怖がりというよりは、雄略天皇の身内殺害が多くあったから「私も殺される」と勘違いし、こうなったのかもしれません。

さて、本書では、なぜ継体かという疑問に対し、明確にこれだという回答を示しているわけではないですが、通読すると浮かび上がってくるキーワードがあります。それは国際性です。

  • 百済に対する援軍と領土拡大譲歩を行った(これは失策と考えることもできるが)
  • その見返りに百済から五経博士を派遣してもらった。これは単なる人的交流ではなく、当時の日本になかった重要な統治文化の輸入であった。博士とともに日本にやってきたものは:
    • 「氏」名の成立。記録によると、雄略(第21代)期には名字はなかったが、継体(第26代)〜欽明(第29代)期に成立
    • 和風諡号(天皇の死後に名を贈ること)と殯(葬儀)宮儀礼 等
  • 半島で活躍し帰国した首長に冠などを与え評価
  • 秦氏など渡来人を重用


継体がこのような積極的な対外政策を行った素地はどこにあるのでしょうか。

  • 故郷の滋賀県高島は当時国際性の高い土地だった:
    • 渡来人が暮らしていた(オンドルなどが発掘されている)
    • 日本海経由で九州有明沿岸地域と結ばれ海外に開かれていた

継体天皇の父彦主人王は、もともと近江坂田にいましたが、彼の代で琵琶湖対岸の高島に移りました。そこは当時の国際ルートだったというわけです。これが継体の飛躍につながっているのでは、というのが著者の指摘です。

私はこれを読んで納得するとともに、現代において、自分の仕事や子ども達の将来のために国際性の高い場所・職・学校などを求める人々と似た思いがあったのかななんて想像をしてしまいました。

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継体天皇と百済武寧王

さらに著者は大胆な、しかし古代や継体天皇への思いを一層馳せることのできる推測を行います。それは、継体は5世紀後半頃半島に渡り、百済の重要人物と交わりを結んで帰国したのでは、というものです。

根拠としては、和歌山県隅田八幡神社所蔵の人物画像鏡があります。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/8/83/Sumida_Hatiman_Mirror.JPG/475px-Sumida_Hatiman_Mirror.JPG
ウィキペディア・コモンズより[パブリック・ドメイン])

これを「503年に百済の武寧王が即位前の継体天皇に贈った物」という見解に立てば、次の特異な点が浮かび上がります。

  • 百済の王が自らに「王」をつけず謙譲的な名乗りをしている
  • 即位前の継体に長く奉えることを願っている

また、武寧王の棺(継体17年に死去)は日本にしかない高野槙で作られているそうです。

以上を考えると、継体と武寧王は個人的な親交があったのではないか、というわけです。

このあたりを読むと、個人的に「遠い遠い昔の、資料の中の記録に過ぎない」という印象を持っていたこの時代の出来事が、一気に「血の通った人間のドラマ」に感じられてきました。

著者水谷さんは、「謎の豪族 蘇我氏」同様、研究者らしく事実の積み重ねとそれに基づく考察でこの本を構成していますが、行間にこの時代へのあふれる想いを感じます。それが「人間ドラマ」を感じさせてくれたのかもしれません。


継体朝での出来事と蘇我氏の台頭

なお、前のメモで書いた蘇我氏の台頭は、この継体の在位中の出来事からも読み取ることができます。

  • この時代の石棺には、阿蘇(有明海沿岸勢力の中心)のピンク石を使ったものがある。これらはいずれも「葛城氏とは対立的で継体天皇の支持勢力が多かった大和盆地東麓エリア」の古墳に集中している。葛城氏の勢力にはない。

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(参考:今城塚古墳のそばにある「今城塚古代歴史館」に展示されている阿蘇ピンク石の実物。詳細は以下のメモを参照ください)

  • よって、当時の大和王権は、「継体支持勢力+有明海沿岸勢力 VS 葛城系勢力」という構図だったと考えられる。
  • そんな中、磐井の乱が勃発。これは、継体が大和に入った1年後、大和王権と九州の筑紫君磐井との間に起こった軍事対決。先に官軍(継体)が攻撃を起こした。中央より独立しようとしていた磐井を鎮圧した戦いと考えられている。
  • このころ(6世紀初頭)、突然ピンク石の畿内持ち込み中止・・・磐井の乱の影響だろう
  • また同時期に、葛城氏の古墳が小形化・・・継体天皇の大和入りにより継体反対勢力の葛城氏の政治連合は解体されたのであろう。その後、葛城氏に変わって蘇我氏が台頭。継体支持の功績がきっかけだったと考えられる。

継体天皇の即位から在位の間には、これだけの大きな変化が起こっていたのです。


継体天皇の政治の結果

第26代継体天皇陵と推定される今城塚古墳の全長は190メートル。雄略天皇の後、古墳は小形化しましたが、それが雄略陵と同程度の大きさに戻っています。水谷さん曰く「王権の復活が象徴されている」。まさに継体が成し遂げた政治の結果を表しているものだと言えるでしょう。それだけの手腕が見込まれたからこそ、継体天皇は跡継ぎに選ばれたのかもしれません。
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今城塚古墳(学術的に継体天皇陵と推定されている)

現代の皇室まで続く1,500年にわたる歴史はこの継体天皇が源(の可能性が高い)と考えると、「政治の中心からはほど遠いが国際性は豊かだった地」から紆余曲折を経て皇位に就き、国内の政治地図を塗り替え百済との交流を積極的に進めた彼の治世がより重要なものだと感じられます。このようなドラマとロマン(死語?)を味あわせてくださった著者の水谷さんの力にも感心しました。


関連メモ

「真の継体天皇陵」訪問記


古代日本


「日本人」論


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