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あらすじは陳腐なのに離れなくなる物語−村上龍「心はあなたのもとに」

心はあなたのもとに

[物語]
投資ファンドを運営する富裕ビジネスマン西崎は、風俗嬢サクラと恋仲になる。サクラは不治の病を抱えていた。物語は彼女の死を伝えるメールから始まる。

[感想]
ここまで陳腐でおもしろくなさそうな小説のあらすじはなかなかないと思います。でも、この作品から離れることはできませんでした。控えめに言っても、おもしろかった。

何がそうさせるのでしょうか。この小説は、昨年発表の「歌うクジラ」を含めて龍さんの作品が発散している「くさみ」がほとんどありません。暴力や性、身もふたもない断言、異様な疾走感などの刺激的な要素がごく少ないのです。だからそれらの「龍テイスト」によって身体が揺り動かされたわけではないのです。

一方、もうひとつの村上龍作品の特色である、「小説の名を借りたルポルタージュ」の側面は健在。設定は2002年から2003年とはいえ、私からは遠い世界である投資ビジネスの実態、富裕層の生活(食事・旅行・会員制医療機関など)などの情報や、龍さんが実感しているいろんな「ノウハウ」*1は随所にひしめいています。これらがページを繰る手を止めさせなかった。たしかにそういう面はあると思います。

しかし、それだけではなかったと思います、この小説から離れられなかった理由は。もっとも大きいのは、恋人の1型糖尿病を筆頭に、体の不調など「どうしようもないこと」に対峙する人間の姿が描かれていたことだと思います。これまでの村上龍作品にない新たな世界を切り開いたというわけです。これまでの龍さんの作品は、世間一般の感覚からいうと「異常なほどエネルギッシュ」な人々が多数登場していました。しかし今作は違います。起き上がれなくなることも珍しくない恋人だけでなく、精悍な印象のビジネスマン西崎も心身の不調をきたすシーンがあります。そういった人々が、その制約の中で持てる力と可能性を追求していく。そこに私は惹かれたのだと思います。

あとは、龍さんの作品にしてはえらく「正攻法」でかつそれが成功している点も印象的です。あらすじ同様、個々の一シーンでも時折「くさいくらい直球だけど素直に心を動かされてしまう」のです。毎回枠から外れた作品を出しているミュージシャンがえらく正統なスタンダード風の曲をリリースした、という感じです。これはこれで、龍さんの新たな「実験」なのかもしれませんが、それが成功していると思われます。

半島を出よ」の後、この人はこれを超える作品を書けるのだろうかと思っていたこともありましたが、この作品は今後の「また別の方向性」を示してくれたのかもしれません。この人の歩みは今も衰えていないようです。

*1:例えば「爪を剥がすと最高に痛い、痛みがないと人間は傷に注意を払わないからそうなっている、ただずっと痛かったら辛いので、しばらく時間がたつと痛みが中和される仕組みになっている・・・精神にも似たような変化がおこるのではないだろうか、そう思った。」など


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