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連合赤軍リンチ殺害事件をどう受け止めていくのが適切か

1回目のメモでは「連合赤軍とはどういう集団だったのか」を、2回目のメモでは「リンチはどのようにして進行し、『同志』12名の殺害に至ったのか。そしてそれはなぜ起こったのか。」についてメモしてみました。今回は、最後に、この事件をどう受け止めるのが適切なのかを考えてみます。


これまでの受け止められ方

1994年の「全共闘白書」には、元活動家に1970年前後にあれほど活発だった学生運動をどういう理由で離脱したのかを問うアンケートが掲載されています。1位は「内ゲバ」(暴力による組織抗争)、2位は「連合赤軍」となっています。この事件が、学生運動にとどめを刺すものであったことがよくわかります。実際には、この事件の起きた1972年頃はすでに学生運動は下火になっていたのですが、それに決定打を与えたのは間違いなさそうです。

その後はどうかというと、私も、1989年(平成元年)に大学に入学するときには、親から「せっかくなので好きなことをすればいいが、学生運動だけはやめてほしい。まあそんな時代でもないけれど。」と言われた記憶があります。また私自身も、学生運動=「子どもっぽい正義感を振りかざす狂信的な人々のごっこ遊びで、最後は仲間をリンチする」という印象を強く持っていました。連合赤軍事件について詳しく知っていたわけではないけれど、学生運動とこのリンチ事件をかなり強く結びつけていたのです*1

当時のバブル末期という世相も影響していたのかもしれませんが、とにかくその頃は、個人的な皮膚感覚ではありますが、社会運動、特に政治に関わるものは「まともな学生はやらない」「危険」「狂信的」というイメージがかなりありました。これらすべてを連合赤軍事件に結びつけるのはやり過ぎかもしれませんが、ある程度の影響力はあったのでは、とは思います。少なくとも政府はそれを望んでいたようです。


政府による「演出」

まず、あさま山荘事件について。警察庁長官後藤田正晴は犯人を射殺し「殉教者」とすることは避け、必ず生け捕りにするよう厳命。そして、機動隊の突入は2月28日月曜日に行われましたが、「夕刊の出る平日なら新聞が2回この事件を報道し事件がより大きくなる」との判断があったそうです。そして長官の命令通り犯人全員を生きたまま逮捕した後、今度はリンチ事件が明るみに出ると、いっそうの「演出」が披露されます。

警察は被害者の埋められた死体を発見後また埋め戻し、それからマスコミを呼び「公開捜査」の名の下「死体発見」を見せるようとりはからいます。当時のマスコミもなぜ必ず死体が出てくるのか不思議に思ったそうですが、一方でこれほどの「ネタ」もないわけで、報道は過熱していきます。しかも警察は犠牲者全員を一気に「発見」するのではなく、何度かに分けてマスコミに公開。警察側の言い分では検視する医師の数が不足していたためとのことですが、ショッキングな「死体発見」を複数回報道させるための「演出」と捉えたほうが自然に思えます。これらの「演出」が日本政府と警察の「政治運動にネガティブイメージを植え付けさせる」意図のもと行われたとしたら、これは大成功だったと言えるでしょう。


事件をどう受け止めていくのが適切か

著者小熊英二さんは、多くの文献を例に挙げ、この事件はこれまで「党組織の問題」「理想・正義」の限界などのような普遍的なテーマで論じられてきたことを示しています。しかし、これまでの検証結果から判断すると、この事件の本質は「幹部の保身という矮小な理由」に集約されます。このギャップの理由の一つとして、小熊さんは当時この事件にショックを受けた人々が「あれほど自分たちに衝撃を受けた事件は普遍的なテーマにつながっている大きな問題であるはずだ、という先入観があったのでは」と指摘しています。

このような同時代人の「せめてこうであってほしい」という先入観と政府の巧みな演出により、この事件はいびつなかたちで捉えられてきたようです。それは平成の大学生にも一定の影響を与えていました。そんな普通でないバイアスがかかったこの事件、いったいどう受け止めていくのが適切なのでしょうか。

小熊さんは、この事件を記述した章を次の言葉でまとめています。

感傷的に過大な意味づけをしてこの事件を語る習慣は、日本の社会運動に「あつものに懲りてなますを吹く」ともいうべき疑心暗鬼をもたらし、社会運動発展の障害になってきた。しかし時代は、そこから抜け出すべき時期にきているのである。

私もまったく同感です。この事件は、その残虐性のみならず、その後の社会運動を停滞させたという点でも非常に大きなマイナスの影響を日本社会に与えてきました。しかし今世紀に入ってから、多くの当時の関係者が証言を始めるようになったことでこれまでメモしてきたような「この事件の本質」が明らかになってきました。この事件のもたらした呪縛から解き放たれるには十分すぎる時間が過ぎました。「社会運動に熱心にかかわるとろくなことにならない」というイメージは完全に捨て去るべきときに来ているのではないかと思います。

最後に、私がこの事件から学んだ、身近に起こりうること2点についてもメモしておきます。ひとつは「身体的に不快な環境は精神を病ませる」ということ。連合赤軍メンバーの証言から、彼らが食事・住環境において悲惨な状態にいたことがどれほど人間性を抑圧し思想行動に影響を与えたかをつぶさに感じました。出発点がいくら精神的に高尚なものであっても、厳寒の狭い山小屋に押し込められ貧しい食事と不潔なトイレが続く毎日を送っていると道も踏み外しやすくなるということを痛感しました。

もうひとつは、組織がおかしな方向に進んでいっても、メンバーがそれを察知して制御できる段階は限られており、それを過ぎると組織メンバーは制御するより逃げ出すようになり、それが崩壊を加速させるということ。連合赤軍も、もとの組織のひとつは革命左派、さらにその前身は労働運動を生真面目にやる組織「警鐘」だったわけです。永田洋子は、共立薬科大で学ぶうち薬が患者のためよりも病院やメーカーのために使われている現状を変えたいと思いこの「警鐘」(正確にはその前身となる組織)に入ったものの、最終的には12名リンチ殺害の首謀者に変わり果てている。このような組織の変容に彼女がどこまで自覚的だったのかはわかりませんが、変容の段階を経るにつれほとんどのメンバーが組織から抜け出ています。転落していく組織は制御されるより見捨てられ、それにより転落に拍車がかかる。誰も永田(や森)の変容と暴走を止められなくなる。そんな悲劇を連合赤軍のたどった経緯から感じ取った次第です。


(参考)指導者たちのその後

リンチを主導した森恒夫は1年たたないうちに拘置所で自殺。森と共に事件を進行させた永田洋子は先月(2011年2月)確定した死刑が執行されることなく脳腫瘍で死亡。この事件の遠因を作り出した(と私は思います)革命左派元議長の川島豪(リンチ事件には直接関与していない)は1979年に出獄、1990年に死亡。

関連メモ

*1:実は連合赤軍をそう捉えるのには少々無理があります。リンチ事件の関係者には若者こそ多かったものの指導者の森と永田は共に当時20歳代後半でした。


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