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個人的な不満と政治との関わりはどういうものになるのか? - 宇野重規「<私>時代のデモクラシー」

〈私〉時代のデモクラシー (岩波新書)

一人一人の<私>というミクロな視点に立つことで、社会全体のマクロな動態を把握していくための本です。どこかの書評(失念失礼)で知って読んでみました。私自身と政治との関わり合いについて何か参考になれば、と思ったのです。以下、私自身の独り言とともに読み進めていった内容をメモします。

はじめに出てくるのがトクヴィルの言葉。自分と全く異質な存在なら不平等も意識しないが、同じ人間ならその人との不平等は気になるという言説です。国際的にも、一国の中でも、「王様は違う世界の人だから比べる気にもならない(そもそも眼中にない)」というような「あきらめ」がなくなってきているということかな。ふむふむ。たしかにそうだろう。

でも、日本国内で格差問題トピックが目立つようになって長いけど、これはどういうことかな。異質な存在というほどに違いを認識しない「普通の人々」の中で格差が広がっているという話ではないだろうか?これについては、佐藤俊樹東大教授の言説が紹介されています。近代社会は個人を基本単位とするが、親は、子どもを「準本人」として設定することがある。戦後日本においては、持続する経済成長と「代理としての子ども」という発想があいまって、特有の「不平等感の喪失」効果が働いた可能性がある。しかし、現代ではそのように子どもを「代理」とみなす傾向は弱まり、これが現代の不平等感の強まりに関係しているとの指摘がある・・・という内容です。これがすべてだとは到底思えないけど、理由の一つではあるかな。それに、まだ、子どもを「親の代理」とみなしている人はけっこういそうに思うけど。まあそれはさておき、読み進めよう。

このような「私」の不満と政治との関わりはどういうものになるのだろう。そこにある課題は?ここで著者は、小熊英二・上野陽子「<癒し>のナショナリズム」などを挙げながら、<私>のナショナリズムがその推進力を得るのは行き場のない<私>の思いからであるが、これを脅威とされる他者の排除に結びつけないためには、<私>の問題を<私たち>の問題へと媒介するデモクラシーの回路を取り戻すしか方法はないと論じます。まさにそれこそが、私自身も「私」と政治との関わりにおいて気になっているところでした。ではどうすればいいの?著者によれば、明確な政策的対抗軸を伴った政党政治の復活が重要とのこと。ううむ、この辺の「ではどうすれば」のところが弱いなあ。本書全般的に。でも、この本のおかげで、もやもやしていた「私」と政治との関わりについては少し整理ができた気がする。なのでこの「提言」の弱さをもって本書をつまらない本とは感じないな。

あと、興味深かったのは、ブルデューが「社会とは、人生の意味を創出するメカニズム」と言っていたということ。人生とは生きることの正当化の探求の過程に他ならない。生きる意味を提示してきたのはかつては神だったが、現代では世界や社会しかない。社会は個人に承認という希少な財を配分するものであり、人々の未来への時間感覚や希望に強い影響を及ぼすものである。そういう論です。これは個人的には大変に納得できる話です。人間は、人との関わり合い・フィードバックの中で生きている実感を得るんだよな、とは常々感じているところですので。もちろんそれは、桜井和寿が歌っているように、地位や名誉がって話ではなく、自らが価値を感じる人やコミュニティ(もちろん家族含む)からの承認が一切ない生活って相当つらいんじゃないか、という意味です。でも、じゃあ、人に認められることが人生の目的なの?それが目的になると、人に合わせることが一番ってことにならない?

そういう誰もが抱きがちな疑問については、著者はこう答えています。他者からの視線を意識することが主体性の欠如へと向かうのではなく、むしろ「公平な観察者」を内面化することによって、自己反省と自己修正を実現するという点が重要なのだと。この結論だけを読むと、なんだ当たり前の話じゃないか、と感じるでしょうが、上記メモを含めたいろんな言説や考え方を通じてこの言葉を読むと、腑に落ちる感が増しました。このように、読者のちょっとした疑問と著者の平易な文章との会話がスムーズに行えたという点で、楽しい読書体験が得られる本でした。



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