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日本人は集団主義ではない? - 高野陽太郎「『集団主義』という錯覚 日本人論の思い違いとその由来」

「集団主義」という錯覚―日本人論の思い違いとその由来

日本人は集団主義、アメリカ人は個人主義とよく言われる。しかしそれを実証した実験結果はない。よって、日本人は集団主義とは言えない。それがこの本の要旨です。

著者は、日本人とアメリカ人を比較した実証研究を調査します。すると、対象となった19件の研究のうち、日本人のほうがアメリカ人より集団主義的であるという結果が出たのは1件だけで、しかもその研究には不備があったことが明らかになります。

研究のうち、代表的なものはこんな内容です。被験者は2枚のカードを渡されます。一枚には1本の線、もう一枚には3本の線が書かれてあります。被験者はその3本の線のうち、もう一枚にある線と同じ長さのものを選ぶのですが、他の被験者(実はサクラ)が、明らかに長さの違う線を選んでいるのを見ると、それにあわせて間違った線を選ぶ人が出てきます。この同調行動について、日本人とアメリカ人に差があるかを調査するのです。結果は、同調して間違った線を選んだ日本人は25%、アメリカ人は37%。アメリカ人のほうがより「同調的→集団主義的」と言える、というわけです。

通読してみると、先行研究を整理し、ロジカルに、また多数の例を挙げて「日本人がアメリカ人より集団主義的とは言えない」ということをわかりやすく証明していくステップは、誠実さを感じるほどに丁寧で、この点からも本書は読むに値する本だとは思います。


しかし、個人的には、組織や集団への同調は、日本人にはやはり他の国の人よりも強く見られるような気がしています。例えば、日経新聞99年1月21日、リー・クアンユーの「私の履歴書」から。

日本人にはいつも驚かされる。戦前、シンガポールの日本歯科医院や商店で得た印象から、私は日本人は礼儀正しく親切だと思っていた。だが、(第二次世界大戦が始まって、シンガポールを占領した)日本兵は信じられないほど残酷で、私たちは恐怖の三年半を過ごした。この記憶を消し去ることは難しい。ところが、降伏後、日本兵は模範的捕虜になり、良心的で懸命に働き、シンガポールの街をきれいに清掃して去っていった。

一人の談話がすべてだという気は毛頭ありませんが、ここで挙げられたような話は、私としては、実に「ありそうだ」というか、実感できる話です。他にも、何人もの外国人と話していて、日本人よりもはっきり自分の意思を表明するな、と感じることもよくあります(この場合、相手が私でもわかるシンプルな英語で話してくれたため、よりはっきりと聞こえるという側面はあるかもしれませんが)。


ではその「感覚」と実験結果との差異はなぜ生じるのでしょうか。そのヒントも、この本にあるのでは、と思っています。

この本では、「対応バイアス」という現象が紹介されています。これは、「人間は、他人の行動の理由を推測するとき、状況という外部の要因を軽視し、性格や能力といった内部の特性を重視する」ことを指す言葉です。このバイアスは非常に強固なのだそうです。このことから、著者は、人間を「国民性」といったあいまいな概念をもって考察することの危うさを指摘してもいます。また、「状況」のもつ力の強大さを、有名な「ミルグラム実験」を紹介し説明しています。

日本では、この「状況」の持つ力、つまり集団の同調圧力が強いのであって、個人が常に何にでも同調しているわけではない。だから同調圧力がはっきりしていない実験室では同調行動をそれほどしない。同じ人でも、学校や職場では自分の意見は控えめにするけど、お店で気に入らないサービスを受けたら苦情は言うとか、そういうことはあるんじゃないか。そんな気がしています。まあそういう同調圧力の強い集団を作ることそのものが集団的な国民性を証明している、と言われれば返す言葉はないのですが。

私の考え、というか感覚によると、この本で著者がとなえる「国民性というあいまいな概念で人間を論じるのはナンセンス。状況で人間の行動は変わる」という点には全面的に賛成しつつ、「日本人は集団主義的でない」という点には違和感を覚える、というのが正直なところです。たしかに日本人個人個人は集団主義的ではないかもしれないけど、同調圧力の強い組織や集団は他の国よりけっこうあるような気がする、というわけです。


いずれにしても、こういうことを考えるきっかけを与えてくれたということだけでも、価値のある本だと思います。


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