庭を歩いてメモをとる

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ケン・ハーパー「父さんのからだを返して」

父さんのからだを返して―父親を骨格標本にされたエスキモーの少年

uikoさんのブログで知った本です。uikoさん、ありがとうございました。


人類で最初に北極点に到達したと言われているアメリカ人探検家、ロバート・ピアリー。その不屈の精神は偉人伝などでもおなじみかもしれません。私も子どものころ、学習漫画のたぐいで短い伝記を読んだ覚えがあります。

そのピアリーや、20世紀初頭前後の人類学界の傲慢さを丁寧な取材によって明らかにしつつ、一人のイヌイットの数奇な運命を綴ったのがこの本です。

ピアリーは、自分の探検と名声に利用できるものはなんでも利用したそうです。イヌイットたちが金属器を作るのに使っていた隕鉄も勝手にアメリカに持って帰っています。その上、1897年、北極探検の帰りに、6人のイヌイットを「研究」のためにニューヨークに連れて帰ります。彼らは一応きちんとした生活が営めるよう世話されますが、慣れない気候のなか4人が肺炎などで死亡してしまいました。生き残ったうち、大人の男は北極に帰り、父を亡くしてしまった少年ミニックは一人残されてしまいます。このとき彼は6歳か7歳。ほどなくして理解のある博物館職員ウィリアム・ウォレスに引き取られ不自由ない教育を受けますが、ウォレスは博物館の資金を自分の事業に流用していたことなどが発覚、博物館を追われます。ミニックも余裕のある生活から貧しい境遇に移らざるを得なくなります。

そしてミニックは知ることになります。亡くなった父の体が、偽の埋葬の後、アメリカ自然史博物館で骨格標本にされていることを。父の体を返して欲しいとの要望は却下されるというより無視され続けます(父の体が故郷グリーンランドに帰ったのは実に1993年のことでした)。

こうしてミニックはアメリカに愛想を尽かせ、故郷である北グリーンランドに戻ろうとしますが、ピアリーはしばらく無視。なんとか、1909年、ピアリーの船で故郷に帰りつきますが、そこにも彼の居場所はありませんでした。同胞はあたたかく迎えてくれますが、言葉も狩猟技術も、大人になった今、一から覚え直さなくてはいけません。彼は「オーロラの光より、ブロードウェイの光のほうが恋しい」というようなことを述べています。

1916年、ミニックは今度は自分の意思でアメリカへ行きます。そして最後に親しくなった友人の家で、1918年、気管支炎で亡くなります。


私がこの悲劇を読んで感じたことは、月並みですがふたつです。ひとつは、「ふるさと」アイデンティティが引き裂かれた人間の悲哀です。ミニックは、イヌイットでありながら、人格や知識などにもっとも影響がありそうな少年期をニューヨークで過ごしています。アメリカにいるとグリーンランドに郷愁を感じ、グリーンランドに戻ればアメリカが恋しくなる。これはほんとうに「身を裂かれる」感覚であったと思います。というか私には想像だにできない。ミニックが最後にアメリカで心を許せる友人と暮らせたらしいことだけが救いに感じます。


もう一つ感じたことは、人種を「ランク付け」しようとする性向って人間がけっこう根深いところで持っているものなのかなってことです(だからといって、許されることだとは決して思いませんが)。私がこの一連の史実を読んで、まず思い出したものがあります。1903年、大阪で行われた内国勧業博覧会における「人類館事件」です。詳細はリンク先をご参照いただければと思うのですが、日本でも「人間の展示」をやっていたのですね。

しかも、展示された側(差別されている側)の意見も、また差別感情を内包しています。沖縄県人は沖縄県人と台湾原住民、アイヌが一緒に展示されていることについて「特に台湾の生蕃、北海のアイヌ等と共に本県人を撰みたるは、是れ我を生蕃アイヌ視したるものなり。我に対するの侮辱、豈これより大なるものあらんや」、清国留学生も「ジャワやアイヌ、台湾の生蕃は世界でも最低の卑しい人種であって禽獣に等しい。我々中国人が蔑視されるとしても、これらの民族と同列ということがあろうか」と述べています。


人種差別は、もっとも人を深く傷つけかつ非合理な差別の一つだと思うのですが、これは教育などの影響が大きいのか、それとも人間がもともと持っている「習性」なのか、この本や事件を知って、よくわからなくなりました。両方なのかな。


あと、話は変わりますが、序文を俳優のケヴィン・スペイシーが書いていました。誠実な文章でした。



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