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障害者が実刑判決を受けやすい理由 - 山本譲司「累犯障害者」

(2018年2月25日更新)

一言で言えば、身近に自分のまったく知らない世界があったことを思い知らせてくれた本でした。というか、自分が身近な問題をきちんと見つめようとしていなかったということを気づかせてくれたと言うべきでしょうか。

知的障害者は「犯罪を起こしやすい」のではなく「実刑判決を受けやすい」

この本は、障害者による犯罪についての真摯なレポートです。最初に出てくるのは知的障害者について。法務省発行の「矯正統計年報」によると、2004年の新受刑者総数は32090人ですが、そのうち約22%の7172名は知能指数が69以下の人なのだそうです。もちろんこの割合は、日本社会一般における割合よりかなり高いものになっています。

著者によれば、これは知的障害者が犯罪を起こしやすいと言っているデータではありません。知的障害と犯罪動因との医学的因果関係は一切ないそうです。

ただし、彼らは善悪の判断が定かでないため、たまたま軽微な罪を犯した場合も、取り調べや法廷で自分の身を守る言葉を口にできない。反省の言葉を言うこともできない。そのため、司法の場での心証を悪くし、軽微な罪でも実刑判決を受けやすくなるのです。

そしていったん刑務所に入ると、福祉から遠ざかってしまい、あとは刑務所を出たり入ったりの人生が続いてしまいがちとのこと。

下関駅放火事件

この本では、この悪循環から生まれた実例を紹介しています。最初に取り上げられているのは下関駅を全焼させた放火事件。被告人は知的障害者で、成人してからの54年のうち50年間を刑務所で過ごしています。上記の悪循環の典型的なパターンです。この被告人に著者は問います。

「刑務所に戻るんだったら、火をつけるんじゃなくて、食い逃げとか泥棒とか、ほかにもあるでしょう」
「だめだめ、食い逃げとか泥棒とか、そんな悪いことできん」
「じゃー、放火は悪いことじゃないんですか」
「悪いこと。でも、火をつけると、刑務所に戻れるけん。外では楽しいこと、なーんもなかった。外には一人も知り合いがおらんけど、刑務所はいっぱい友達ができるけん嬉しか。」

この被告に関しては、社会に居場所がありさえすれば、放火をすることはなかったのでは、と著者は述べています。

レッサーパンダ帽の男による女子短大生刺殺事件

さらに悲惨な事件としては、レッサーパンダ帽の男による女子短大生刺殺事件があります。この事件の被告人も、知的障害者でした。さらに、裁判では自閉的傾向(発達障害)もあるとも認定されています。(参考:副島洋明さんインタビュー「障害と事件」 【08年6月特集 発達障害ってなに?】

この事件の背景には、父親(知的障害者であることが事件後に判明します)による散財と暴力、父への恐怖から失踪しがちな被告人、母亡き後父と兄を支えるために高校進学を断念し懸命に働きながらも21歳で末期癌になってしまった妹という家庭環境があります。この家族を支える手を誰かが差し伸べることはなかったのか・・・そう思わずにはいられません(妹に対しては、人生の最後に障害者支援グループがもてる力をすべて注ぎ込んで「彼女の望み」をかなえるのですが・・・)。

しかし、たとえ環境がどうあれ、被告人は殺人を犯したわけですから、その罪は許されるべきではないと著者は述べています。私もそう思います。ちなみに、犯行動機は、よくわからないままです。

知的障害者たちを食い物にする者たち

この障害者たちを食い物にする者たちもいます。暴力団が、知的障害者を集め養子とし、障害者に交付される手当を巻き上げるのです。

実は身よりのない知的障害者は、精神病院の閉鎖病棟に収容されることが多いようなのです。本来は治療ではなく福祉を必要としている人たちなのですが、他に「行き場」がないのかもしれません。そしてこうした人たちを「厄介払い」したい病院側と、「カモ」がほしい暴力団とが結託していたのであろうか、と著者は問いを投げかけています。

他にも、知的障害者を売春婦にし、覚醒剤まで打つケースも登場します。こういったケースでやりきれないのは、彼女たちが売春の経験を嬉々として語ることです。「きっと、人生の中で一番ちやほやされていたのが売春の現場(だったのでは)」と著者は書いていますが、そうなのかもしれません。利用されていることがわからない。喜んでサービスする。これでは彼女たちは、利用したい側にとっては「カモ」以上です。


聴覚障害者をとりまく世界

この本からは、聴覚障害者についても、これまでまったく知らなかった環境と背景があることが学べました。

手話は日本語とは別の言語

まず非常に驚いたのは、手話には2種類あって、聴覚障害が日常で使っているのはその一方だけだということです。聴覚障害者の用いる手話は、日本語とは別の言語で、健常者が学習する手話と異なり、手以外の動作が極めて重要な意味をもっているとのことです。そして、聴覚障害者のほとんどは、私たちが日本語で物事を考えるように、手話で考え、手話で夢を見るそうです。

ここで著者は推測します。言語世界の有り様が違えば、精神世界も異なってくるのではないだろうか、と*1

実際、聴覚障害者が起こした不倫殺人事件において、「(被害者は)どうして不倫を承諾したと思うか」という問いに対し、被告人は「嬉しいから」と答え、「どうして山中に死体を遺棄しようと考えたのか」という問いには「車が妻のだから」と答えていたそうです。

手話通訳の誤りも多いらしいのでなんとも言えないのですが、聴覚障害者には、抽象的な話はなかなか伝わりにくいとのこと。著者自身も、ろうあ者へのインタビューでそれを実感しています。

聴覚障害者への教育

では、聴覚障害者への教育はどうなっているのでしょうか。

これもまったく知らなかったので驚いたのですが、聾学校(聴覚特別支援学校)では手話を認めず、徹底的に口話を教え込むのです。とにかく発声練習をさせる。しかしその練習結果は本人にはわからない。

そんな中、教育現場では「9歳の壁」という言葉が存在するそうです。聴覚障害者は、聾学校の高等部を卒業したとしても、所詮9歳程度の学力しか身に付かない、といった意味とのこと。

にわかには信じがたい話ですし、すべての聴覚障害者にこれが当てはまるとは考えられませんが、もしこれが事実だとしたら、それは手話という言語に起因するものなのか、それとも教育方法に起因するものなのか?この本では結論を出していませんが、これはいずれにしても健常者も向き合わなければならない課題のように思います。

いずれにしても、独自の言語を用いている聴覚障害者の人々は、独自の文化を持ち、独自のコミュニティで生きているといっても過言ではないのかもしれません。

例えば、手話には敬称も敬語もなく、直接的な表現が好まれるとのこと。日本語とはまさに別世界です。そんな独特のコミュニティの中、聴覚障害者同士が結婚する確率は9割以上と言われているそうです。

また、驚くべきことに、聴覚障害者ばかりで構成された暴力団があり、聴覚障害者相手に恐喝を繰り返すケースがあったということ。

個人的には、それは今まで漠然と描いていた「耳の不自由な人たち」という括りでは到底表現できない課題を内包している事実だと思いました。


福祉はなぜ障害者を避ける傾向にあるのか

最後に、著者はなぜ福祉が触法障害者を避ける傾向にあるのかという理由を推測しています。

ひとつには、給付金の関係。日本の福祉行政では、障害程度を日常生活動作という尺度でしか算定しないのだそうです。だから、福祉施設としては、「食事や入浴の介護が必要な人」は受け入れても、「罪を犯すおそれのあるが身の回りのことはできる障害者」は受け入れても何のメリットもない、ということになります。

一方で、身元引受人のいない受刑者たちを出所後に受け入れる更生保護施設はどうかというと、こちらには福祉的介助スキルがないのです。

著者は、出所後の触法障害者の消息を訪ねていますが、やはり再犯が多く、それをかろうじて免れている人も、「路上生活者」「ヤクザの三下」「閉鎖病棟への入院」「自殺」「変死」というやりきれないその後を送っているとのこと。触法障害者のその後を見る福祉システムは存在しないということなのでしょうか。


以上、まったく自分の知らない世界のオンパレードで、個人的にはかなりショックを受けたわけですが、この著者には、こういう問題が存在していることを教えてくださったことに感謝したいと思います。実は著者・山本氏は、衆議院議員時代に秘書の給与流用で実刑判決を受け、実際に服役した人物。氏はこの経験と真摯な取材を通じて、重要な問題提起をしてくださいました。過ちから多くを学び、意義のある仕事を成し遂げている氏には賛辞を贈りたいと思います。


関連メモ

事件

犯罪・司法

障害

本・まんが全般

*1:個人的には、例えば日本語と英語でも、それを使用する人の思考パターンなどに影響があるような気がしています。そんな研究ってないんでしょうかね。探していても見つからないのですが。


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