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小熊英二「<民主>と<愛国>」第二部(1950年代)

〈民主〉と〈愛国〉―戦後日本のナショナリズムと公共性

第一部からの続きです。


教育界

・戦時中、教育者は生徒の模範であらねばならないという意識は、彼らを当時の規範に従わせる要因となった。そのため彼らは、他の学問分野に比べ、戦争協力に巻き込まれる可能性が高かったようである。

・戦後の教育学者の中からは、自分の戦争責任について個人的に反省を表明する者はいても、教育界全体の戦争協力を総括するという動きは大きくならなかった。これは、敗戦直後にそれを行えば互いの戦争協力をあばく泥仕合につながりかねなかったためである。

・敗戦後の教育界では、制度は変更されたが教育者は変わらない、という状況だった。占領軍の指令によって行われた教員の資格審査・追放でも、追放となったのは全教員の0.5%のみだった。これにより、昨日まで「鬼畜米英」を唱えたいた教師が突然アメリカと民主主義を賛美するという形態が現れた。こうした現象は、生徒たちの不信を買い、「戦後民主主義の欺瞞」という印象を植え付けることになる。

・敗戦後の教育論を拘束していたのは、戦争によって刻印された行動様式であった。「皇道日本」から「主権在民の国」に言葉が変わっても、「民族」や「伝統」などを賞賛し、「国家目標」を求めるという行動様式は、じつは容易に変化していなかった。

教育者ほど戦争に巻き込まれる可能性が高かったというのは、よく考えれば自明のことですが、これを読んで改めて認識した次第。そういえば、終戦直後に小学生くらいだった人たちが、こういう「同じ人物が昨日は鬼畜米英、今日は親米民主主義を唱える」状況を目の当たりにして権威を信じない癖がついた、と語るケースをよく耳にするような気がします。思想界だけでなく、たとえば自称「虚業家」の康芳夫もそうですね。


再軍備

・憲法施行から数年間は、日常生活に密着した条項のほうが第9条より注目されていた。たとえば、第25条「健康で文化的な最低限度の生活」、第15条「公務員は全体の奉仕者」、第24条「両性の本質的平等」などがそうだった。

・冷戦の激化と朝鮮戦争から、アメリカにとって第9条は邪魔な存在となった。1950年6月朝鮮戦争勃発、7月警察予備隊(自衛隊の前身)設立。

・1953年10月の日米会談で、アメリカは日本に軍備増強と共に愛国心の育成を迫った。アメリカは経済援助とひきかえに32万5000人規模の陸軍をつくることを要求、池田勇人は経済的負担や憲法第9条を理由に18万人まで値切った。しかし、このようなアメリカの圧力は、日本の「愛国心」をめぐる状況を混乱させただけだった。

・当時の再軍備反対論は、純然たる平和志向だけから発生してきたのではなかった。その根底にあったのは、アメリカに従属して復活をはかろうとする旧勢力への反発だった。護憲と非武装中立の論争は、そうした心情を基盤として発生した。

何かと議論の対象になる憲法第9条も、実は当初はそれほど注目されていなかったんですね。逆に言うと、当時は今よりも「最低限度の生活」「公務員」「男女差別」にそれぞれ課題がしっかりあったってことですね。なんにしても、再軍備云々について議論ができるのはそれはそれである程度は「恵まれている」ってことなのかもしれない。いやもちろん、だから再軍備について議論をする価値が低いとかそういうつもりはなく、本当に大事なことだと思ってはいますが。

あと、アメリカの干渉について。当時はもちろん今も相変わらずすごいんだなと思ったのが、このGIGAZINEさんの記事。記事にもあるように、「年次改革要望書」は1993年ごろから発行され、最近徐々にその存在が知られてきてはいますが、その源流は敗戦直後から脈々と流れてきているのだな、と感じた次第です。

続きの第三部および結論についてのメモは、6月29日に書きました。



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