庭を歩いてメモをとる

おもしろいことや気になることのメモをとっています。

自らの「信念体系」を守らんがために他者を正確に捉えようとしないという姿勢は、実はそれ自体が大きな問題になる - ビッグイシューで小熊英二がゲスト編集長に

ビッグイシュー第50号で小熊英二さんがゲスト編集長をやっていると聞いたので買ってみました。特集記事は「今、日本という社会で生きること」。

「”つながりの喪失””経済中心”をこえ、多様な生き方を容認する」というインタビューの中で、小熊さんはこう語っていました。

人間が社会となんらかの「つながり」を求め悩むのは最近の問題ではなく、19世紀から論じられてきた。日本では明治時代のエリートがそれを味わっていたが、彼らは国家とつながる実感をもっていた。しかし「近代人の孤独」が日本で本格化するのは1960年代以降(登校拒否やリストカットもこのころから見られる)。多くの若者は消費でそれを紛らわせていたし、90年代半ばまでは「終身雇用の会社への就職」というかたちで社会とつながりを保つこともできたが、今はそれも難しくなった。(よしてるの要約)

この視点は、小熊さんの著作にほぼ共通している「同じ言葉でも時代によって意味が変わってくる」というもののアレンジで、ふむふむと興味深く読めました。しかし中で、このような視点も意識してもっておきたいと感じたのは次の部分です。

ニートとフリーターと引きこもりは、本来別々の問題であるにもかかわらず、「怠けている若者」と同列で語られている。これは、「大人たち」から見て彼らが規範からはずれているから一緒くたにされているのではないか。しかしこれは「大人たち」の恐怖のあらわれともいえる。過酷な仕事を何十年も続けてきた彼らには、「まともな人間は学校で勉強しているか会社で働いているはずで、それ以外はクズだ」という意識がある。そこに学校にも会社にも行っていない若者が出てきたら「自分が苦労してきた数十年は何だったんだ」という困惑と脅威を感じるだろう。だから「クズを甘やかすな」「かわいそうだから直してあげよう」としないと、彼らの信念体系が崩れてしまう。(よしてるの要約)

自らの「信念体系」を守らんがために他者を正確に捉えようとしないという姿勢は、実はそれ自体が大きな問題になるのだということ。これも小熊さんの著作に共通している視点であり、私が個人的にもっとも小熊さんの著作を面白いと思うポイントでもあるな、と感じた次第。これって、社会問題を考える以前に、自分の日常でも意識しておきたいところだな、とも思いました。


(広告)